挫折続きだったシンディ・ローパーの下積み時代
シンディ・ローパーは1953年6月22日、ニューヨークのブルックリンに生まれた都会っ子だった。だが幼少時に両親が離婚したことで、郊外のクイーンズに移り住んだ。
そこからは環境の変化に馴染めなくなり、いつもどこか場違いな感じで周りから浮いていたので、変な視線を浴びることもあった。
私は17で家を出た。持っていったのは歯ブラシ、替えの下着、リンゴ、そして『グレープフルーツ』というオノ・ヨーコの本だけ。『グレープフルーツ』はわたしにとって、芸術を通じて人生を見るための窓になっていた。
やがて音楽の道を選び、バンドのバックグラウンド・シンガーになって働きながら、小さなクラブやディスコで歌い続ける日々が続いた。しかし、あまりにも喉を酷使したことから声帯に損傷を受けて、声が出なくなるという危機に見舞われてしまう。
と、ここまでは世界中で無数にある、プロを目指すシンガーの物語の一つに過ぎない。
そこでシンディは歌声を取り戻すために音楽の仕事を1年ほど休み、ボイス・トレーナーの指導のもと、ヴォーカル・トレーニングに徹した。そして声を取り戻すことができた1970年代後半、ブルー・エンジェルというバンドを結成。
ここから流れが向き始めたのか、まもなくマネージメント契約も結んだ。バンドのデビューがようやく決まった時、シンディはすでに26歳になっていた。
アルバム『ブルーエンジェル』が完成したのは1980年で、シンディが聴いて育ったロカビリーをニュー・ウェイヴ的に再解釈して、新しい時代のバンド・サウンドで蘇らせようとしたものだった。
シンディの伸びやかなヴォーカルはパワフルで生き生きとしていたし、後にセルフ・カバーすることになる『メイビー・ヒール・ノウ』など、どれも十分に高いクォリティを持っていた。
ところが先行シングルが不発に終わってしまったことから、その後の計画が崩れ始める。
レコード会社のポリドールは、シングルの結果を見て、商業的成功を見込みにくいと判断し、積極的な支援を続けなかった。はっきりと自分の考えを主張して簡単には言うことをきかないシンディを、レコード会社はいささか持て余し気味だったのだ。
1980年後半からストレイ・キャッツがブレイクしてネオ・ロカビリーのブームを巻き起こすが、もしブルー・エンジェルもあと1年活動を継続できていれば、流行の波に乗れたのかもしれない。
ところが悪い流れは止められず、契約を解消する際にマネージャーとも揉めたことで、訴訟を起こされた。生き馬の目を抜くショー・ビジネスの世界で歯車が狂うと、こんなことも起こるという典型的な悲劇でバンドは解散を余儀なくされた。
シンディは破産宣告することと引き換えにマネージャーとの関係を絶ち切り、やっと自由の身になれたのだった。
しかし、これ以上はないほど現実の厳しさに晒されても、27歳のシンディは夢を諦めることなく生きていた。日本人向けのピアノ・バーなどで働きながら、苦境の中で必要なもの、すなわち“人と人との縁と信頼”をつかんでいく。
後に婚約者となるマネージャーのデヴィッド・ウルフと知り合い、30歳を迎えようという1983年の春から、シンディの音楽人生に本当の陽があたり始める。














