プライドを捨て、合理主義のその先へ
日本一の公約を胸に臨んだ2年目の05年、中日打線は新加入のタイロン・ウッズを中心に厚みを増した。ちなみに落合中日は守備のイメージが強いが、この年から打撃の指標が良くなり、パークファクター(球場の特性)を考慮した年度別戦力構成の成績では10年以外、打撃の指標はプラスである。
投手陣も好調で序盤は20勝一番乗りで阪神に5ゲーム差をつけ、独走態勢に入るかに見えた。しかし、5月5日のヤクルト戦でウッズが暴力行為により10試合の出場停止処分を受けると、状況は一変する。4番不在の打線は沈黙し、交流戦では15勝21敗とまさかの大失速。22得点しか奪えず首位から転落した。
この交流戦の失速は、落合中日にとって大きな試練だった。「守り勝つ野球」を掲げつつも、実際は主砲を欠いた打線をどう機能させるかが課題となり、采配の選択肢は大きく狭まった。
ただ代打や控えを起用しながら戦力を回し、状況は徐々に好転。7月には川上とウッズが揃って月間MVPを獲得し、11連勝を飾るなど再び首位阪神に肉薄。采配の妙とマネジメントによる奮起で、失速ムードを押し返した。
だが、9月に入ると今度はフル回転だった投手陣に疲労が見え始め、阪神に再び突き放される。阪神との直接対決では、サヨナラ機で川相を温存しアレックスに打たせて凡退するなど、采配に悔いも残った。最終的に10ゲーム差の2位に終わり、球団史上初の連覇はならなかった。
この年の落合中日は、〝正しさ〞を〝勝ち切る力〞へと変換するために必要な通過点だったともいえる。勝利至上主義を徹底しながらも、戦術の限界、采配の重み、そして監督自身のマネジメントを見直す契機となった。
それを象徴するエピソードが、交流戦の楽天戦での落合の発言にある。「いいか、この試合を落とすなら優勝はない」という叱咤なのだが、選手に「監督の言葉は現実になる」と受け取られ、かえって不安を生んでしまった。落合自身もその影響を痛感し、以降は不用意な発言を控えるようになったという。
また、シーズン後には選手や関係者に意見を求めた。プライドを捨て、勝つためにあらゆる声に耳を傾ける姿勢は、裸の王様にならないための落合流の組織運営術である。05年の敗北は確かに悔しいものだったが、この経験が後の中日黄金期を支える土台となったことは間違いない。













