時間割に逆らい、小さな実験を試みたが…
プリズンでは、毎日がこのスケジュールで進んでゆく。日課はきわめて機械的に管理され、そこに中の人の意思で変更を加える余地はない。
中の人は、散歩や入浴をしようと思ったら、前触れもなく訪れる運動や入浴の呼出しに応じるしかない。筋トレをしようと思ったら、午前か午後に訪れる室内体操の時間にするしかない。カップヌードルを食べようと思ったら、14時の給湯の時間に食べるしかない。
あるとき、私はこの時間割に逆らい、小さな実験を試みた。
昼食に加えて14時にカップヌードルを食べると太るので、一度、お昼のときに食べようと考えた。給湯の代わりに、午前中にヤカンに注がれた煎茶をカップヌードルに入れてみた。
けれど、残念ながらぬるかったし、カップヌードルの味と煎茶の味とがうち消しあっていた。私は静かに箸を置き、悟った。やはりカップヌードルは、給湯のタイミングで食べるほかないようだった。
この小さな出来事は、笑い話のようでいて、どこか胸に刺さるものがあった。一日の中で、何を、いつ、どうするかを決める自由が、すでに自分にはないのだという現実を思いしらされたような気がした。
こうした生活の不自由さは、単なる不便にとどまらない。外の世界では、散歩も入浴も筋トレも、カップヌードルを食べることも、自分の判断で、自分の好きな時間にすることができた。
ところがプリズンでは、すべての予定がプリズン側に指定され、本人の意思によって調節できる余地はほとんどない。
中の人にとって、預かりとなった所持品だけでなく、自分の体さえも、プリズンに管理されるモノとなる。試みに自分なりの工夫をこらそうとしても、私のカップヌードルのように失敗に終わり、管理体制の前には自分が無力であることを思いしらされる。
その感覚は、みじめな思いと強い屈辱とを伴っている。
こうして時間を奪われ、行動の自由を縛られる毎日が続くと、「自分のことは自分で決める」という基本的な自尊心を保つことが難しくなってゆく。
施設の側に指示されることが自然になり、やがて考えることよりも、待つことが習慣になる。
それは、みずからの主体性を失ってゆくプロセスにほかならない。
文/江口大和













