〈影〉の主
それから数年後、幸子さんは銀行前の階段に残る黒い〈影〉のことを知った。石段に残る人影は被爆モニュメントの一つとして認知され始めていたのである。幸子さんは〈影〉は母のものに違いないと思い定めて、たびたび手を合わせに出かけた。
峠三吉(1917〜1953)が当時の石段を描いた詩がある。
ペンキ塗りの柵に囲まれた
銀行の石段の片隅
あかぐろい石の肌理にしみついた
ひそやかな紋様
あの朝
何万度かの閃光で
みかげ石の厚板にサッと焼きつけられた
誰かの腰
うすあかくひび割れた段の上に
どろどろと臓腑ごと溶けて流れた血の痕の
焦げついた影
(峠三吉「影」より、『原爆詩集』青木書店、1952年)
緑色だったという〈影〉は次第にコールタールのような黒色に変化し、その色も時と共に薄れていった。劣化を危ぶむ声から1971年、石段を切り取って平和記念資料館に収蔵、展示することが決まった。
その際、幸子さんが事情や証言を伝えて石段の一部を所望すると銀行側は快く応じた。幸子さんは、もらった石段のかけらを二つに割って一つを墓に、もう一つを仏壇に納めたのである。
石段移設の報道がきっかけとなって、さらに複数の証人が現れたが、それでも、人影が越智ミツノさんだとは公には認められなかった。
親族や関係者の助力も得て、幸子さんの申し立てがようやく認められたのは1997年のことだった。平和記念資料館に「……この人影は、自分の母親である越智ミツノさん(当時42歳)ではないかと申し出がありました」という解説パネルが追加されたのである。原爆投下から52年が経っていた。
だが、それもしばらくのことだった。2009年にそのパネルが取り払われた主な理由は、
「〈影〉の主は、もしや自分の家族ではないか」と申し出る遺族が他にもあったためである。繰り返すが、広島にはあの朝から現在に至るまで大切な人を捜し続けている人々がいるのだ。
8月6日のうちに約7万人、年内に約14万人が亡くなったと言われているが、実のところ犠牲者数は正確に把握できていない。ジェノサイドのほとんどの例と同様である。
戸籍自体は、市役所が疎開させていたおかげで残ったものの、ことに爆心地では地域全体が壊滅したために一家全滅の例も多かった。生死すら不明で、いまだに「死んどるのに死んどらん」人々がいるのである。このような戸籍は「幽霊戸籍」と呼ばれる。
ミツノさんも、あの朝忽然と姿を消してしまった一人だった。消息がどうしても得られなかったために家族はミツノさんの死亡届を出したが、さもなければミツノさんも「幽霊戸籍」の一人になっていただろう。
ただ幸子さんは、届を出した後も「もしかしたら、おかあちゃんは、どこぞで生きとるんじゃなかろうか」という希望が心から去らなかったと言う。後年、一時とは言え、ミツノさんが〈影〉の主と認められたことで、ようやく諦めがついたと。
文/朽木祥













