「完成のない美しさ」を学ぶ
塚原 そうすると小島さんが木と向き合うときに、やっぱり向こうも生き物で、気候もコントロールができなくて、自分としては「こういうふうにしたい」「こうなると美しい」と思うなかで、思いどおりにいかないこともあると思うんです。
そのとき、コントロールしきってしまうのが正解なのか、それともある程度余白を持たせて木の自由に任せるところがあってもいいのか。「木」と「自分の作為」の間合いの取り方って、どう考えているんですか?
小島 それはふたつあって、オールドスクールかニュースクールかに分かれると思っています。たとえばさっき言った「侘び寂び」って、盆栽でいうとオールドスクールなんです。それは古いけれど、すごく大事なことです。僕が最初に海外で見た盆栽は、ニュースクールにもなっていない盆栽でした。足し算でしかなくて、あまりにもがさつで。それがアートだと思ったのか、ペンキを塗ったものまでありました。
でも、侘び寂びというのは完成がなくて、より自然に近い木なんです。もちろん盆栽には作家の意図がありますから、基本的には形づくりがしっかりとなされています。でも中には、より自然美を生かした木もあったりするんです。それが侘び寂びでもあると思います。
今の盆栽はオールドスクールとニュースクールの二つに分かれていて、僕らが作っている木は、もともとはニュースクールな木が多かったと思います。なぜかというと、スタンダードな修行をしていなかったから。僕は最初、ずっと我流でつくっていたんです。
ただ、「このままだといつか(メッキが)めくれるな」と思ったわけです。そのときに一番恥ずかしい思いをするのは自分で、これはスタンダードな基礎を身につけないといけないと思い、ある先生のところへ修行に行き、そこでオールドスクールを学び、「完成のない完成」みたいな美しさを学ぶわけです。
また、ある時はその美しさは自然が教えてくれることでもあります。たとえば山の上のほうの風が強いところで、断崖絶壁で日の光も強い、そういった岩場に雨が降り、風が吹き、何千年もかかって少し窪みができる。そこにまた歳月をかけて砂がたまっていき、いつしか土となり、たまたま風に乗ってきた種、あるいは虫とか鳥が持ってきた種が埋まる。そこからやがて芽が出て、枝葉のある木に成長していく。でも、岩場の窪みは手のひらほどしかないので、根っこもその範囲にしか広がらない。
ということは、そこで伸びていく木というのは、本来なら300年経ったら御神木と言われるような大木で、ものすごく太くエネルギーを発するのだけれども、窪みの中での成長でしかないから、手のひら大のサイズに収まる。盆栽はそれを真似て作るんですよ。
でも、ニュースクールな盆栽はそうではないんですよね。もう少し美術的な、アート的なものになっていく。
塚原 その違いは何ですかね? 作家さんの中に最初からゴールがあって、そのゴールに近づけていくのか。それとも木が自然に育っていって、ゴールがないなかで「ああ、こうなったんだ」という形に落ち着くのか。ゴールがあって、そこに最短経路で行くような向き合いかたがニュースクールで、ゴールのない向き合いかたがオールドスクールということになるのでしょうか?
小島 まあ、そうかもしれないですね。ニュースクールはちょっとケミカルに近いというか、作り込みすぎている。オーガニックなのか、ケミカルなのか。オールドスクールとニュースクールの違いは、それに近いものがあるかもしれません。














