「置き手紙」として木を読む
塚原 ちょっと失礼な質問かもしれませんが、「盆栽のよさって何ですか?」と聞かれたときに、小島さんは何と答えるんですか。
小島 「盆栽のよさ」といっても、ひと言で言うことでもないんですよね。僕が決める定義でもないですし。ただひとつ言えるのは、何百年、何千年と生きているものを「所有している」わけではなくて、「完成させる」ものでもなくて、自分がどれだけ頑張ってこの木を育てて、愛でていたとしても、僕はこの木の「完成」も見られないし、成長の過程を見届けることしかできずに死んでいく。そして次の世代に行く。次の世代も同じことを繰り返していくんです。
もっと言えば、先人が300年前の盆栽を愛でたとき、彼らはきっとこの木に対して、銅線をかけて、成長を促して、剪定をして、毎日水をあげて、太陽の光を当てて、風通しをよくして、根っこの状態を見て、数年に一度は鉢を交換していた。日々それを繰り返していたはずです。でも彼らは死んでしまって、その盆栽は次の世代の手に渡る。それを繰り返して僕の目の前に来たときに、彼らが何をしたかったのか?みたいな「置き手紙」として、僕は木を読む。その木の姿から、先人の意図を酌み取っていくわけです。
「彼らはきっとこの第一の枝をもっと伸ばしたかったんだろうな、そしてここに空間を作りたかったんだろうな」とか、「いや、でも彼らはこの面を正面として向けていたけど、裏にすることによって、もっといいポテンシャルで枝が伸びていき、100年後にはもっといいものができるんじゃないか?」とか、盆栽士は世代を超えて、ずーっとそれを繰り返しているんです。
あえて言えば僕はそこに盆栽のよさを見ているというか、「引き継ぐ」ということですね。自分が所有しているわけではなくて、次の世代に引き継ぐ。そこにネガティブなマインドは一切ない。ポジティブでしかないし、未来のことしか考えない。
そのように未来のことを考えたとき、ひと鉢の盆栽のなかに、この世界は「ある」んですよね。僕が死んだとしても、なくなってはいない。何百年前から何百年後までも、この木が存在している世界線をいま自分は生きている。そういったことも盆栽に教えてもらったと思います。
塚原 小島さんが盆栽を見ると、その木に携わっていた方々が「どういう意図を持ってその木に接してきたのか」が木を通して見えてくる、先人の意図が木の痕跡として残っているような感覚があるんですか?
小島 あります。そうですね、全くその通りです。たとえば一本のデニムがあって、それを農家さんが履き続けた。その農家さんの動きが全部、デニムの色落ちだったりアタリだったり、いろんなものに表れていくじゃないですか。その人の生き方だったり動き方を、一本のデニムが語りかけてくる。それと一緒ですね。どんな人が愛でていたかが見えてくるんです。














