言葉や問いかけが人との関係で
どのように使われているのか
── 第一部の「問いはかくれている」を書くことになった経緯を教えてください。
哲学対話をはじめ、わたしが行っている活動は、言葉の奥にあるいろいろな問いを見いだしていきながら、さらに先へと考えを深めていくような営みです。それを連載でできればと書き始めました。
人間の一人ひとりの言葉は本当は切実なものですが、人はそうではない言い方でも言えるかもしれない、という気配を常に感じながら言葉を話していると思っています。たとえば、子どもに人気の「幽霊は存在するか」という問いがあります。ある場で大人たちがその問いで哲学対話がしたいというのでやってみました。すると、幽霊が存在するかという話ではなく、亡くなった自分の大切な人の話をしたかったことがわかったんです。「幽霊は存在するか」という一見のんきに見える問いや、この本の最初にある「推し」という新語に対して、わたしたちはちょっと軽んじて、うまく耳を傾けられないところがありますが、背後には明らかに人々の切実さがある。そこを一緒に見ていきたいと書きながら考えていました。
── 「推し」「あーね」「ラン活」などの新語から始まり、新しい意味で使われるようになった「普通に」「圧倒的」や、締めの言葉としての「よろしくお願いします」などが取り上げられていますね。新語に加えて、捉え直された言葉も対象になっています。
連載を始めたのがコロナ禍で、人と会う機会が減ったこともあり、対話で生まれる言葉よりも、インターネット記事やSNSで出てきた言葉のほうが距離が近かったんです。けれど連載を重ねるにつれ対話の場が再開されていき、再び人々の口から出てくる言葉の切実さが肌に触れるようになる。そうするともっとそこに人が言いたいことや困っていることなど、まだ考えられることがあるんだなと、自分自身も変化しながら進んでいきました。
── 「推し」の章に〈無自覚に当たり前のように使われている言葉たちには、まだ吟味されていないものがある。そこには決して馬鹿にできない、切実な問いがかくれているのだ〉とあります。言葉や問いの持つ意味が他者との対話の中に見つけられると読み取れます。
言葉や問いを捉えるとき、人と人とをつなげるものとしての言葉に関心を持っています。言葉や問いが人との関係でどのように使われているか、それによって何を考えられるのか、連載中はそういうことばかり書いていた気がします。第二部にもつながりますが、結局言葉との出会いや、それを通して世界とどう出会い直すかを書きたかったのかなと、後になって考えますね。
── 「めしテロ」の章では、大森静佳の短歌や街で見かけた看板の文言から、〝詩の言葉〟について書かれています。この本に限らず、言葉をめぐる考察に詩や短歌を例に挙げることが多いですね。
大江健三郎と古井由吉の対談集『文学の淵を渡る』(新潮文庫)に、詩はできるだけ本当のことを言おうとし、散文は無駄なことを書こうとする、というような文章がありました。そういう意味ではどちらも好きなんですね。だからエッセイでは無駄で余分なことをいっぱい書きたい。けれど、詩が本当のことに近づこうとする試みだとすると、そこに哲学との類似性を見いださざるを得ません。
詩や短歌はたった一行、一編で本当のことを言おうとする、という無茶なことをしている。その身振りに惹かれます。哲学対話の場でもみんなできるだけ本当に近づこうとしていて、その無茶な身振りが、詩人や歌人のそれと地続きだという気がしています。
── 日常語同士がぶつかることで異化が起き、詩の言葉が生まれる。しかし「めしテロ」のように、「めし」という日常語と「テロ」という非日常で過激な言葉が衝突している場合は詩の言葉とは異なり、そこに問いが生まれる、と考察が進みます。何が違うのでしょうか。
それはわたしも大きな問いとして、まだ保留しています。ただ、この章でも少し試みたように、詩は本当のことを書こうとすると、覆い隠されている世界みたいなものを開いて見せて明らかにしようとします。それはもっと広い世界に出て行こうとすることですが、たぶん「めしテロ」や「Wi-Fi難民」という言葉は閉じていくんですよね。「テロ」や「難民」という言葉を骨抜きにしていく。「難民」の人たちがどう生き、どう殺されているのか、本当の部分がどんどん閉じていくような使われ方です。だから言葉の衝撃度としては同じだけれど、起きることとしては正反対という意味で、わたしは拒絶しようとしているんだと思います。
── 第一部の最終章で挙げられている、「ひとそれぞれだから」をはじめとする問いを隠してしまう三つの言葉。確かにこれを言われると対話が終わりそうだなと思いました。
本当によく出る言葉です。対話の現場で教えられたことですが、問いというのは育っていくものなんですね。それは対話が一問一答の場ではないという気づきでもあって。つまり「承認欲求があるからじゃない?」と誰かが言ったとしても、「じゃあ承認欲求って何?」という新たな問いが育つ。そこにみんなでまたついていけばいいんです。さっきの「幽霊は存在するか」という問いもそう。亡くなった大事な人をどう弔うのか、どう忘れないでいられるかと、問いがどんどん育つ。その問いの分だけ本当に近づこうとしていくこと、それが対話だと気づいたから、いまこの三つの言葉が出てきても、たぶん「でも、それって何ですかね」と言えます。














