「読む順番によってストーリーががらりと変わってしまうようなものを作れないかと考えたんです」道尾秀介『I』インタビュー_1
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誰もが無理だと言った挑戦

── 『N』は刊行と同時に話題になり、文庫化でさらに読者を増やしています。『N』に続く作品がこの『I』。一足先に拝読しましたが、期待を上回るすばらしい作品でした。どんなところから着想されたんでしょうか。

 ありがたいことに『N』はとても評判がよくて、今まで小説を買ったことがないという人も買ってくれました。なるほど、こうやって読書人口は増えていくんだなという実感があったので、もう一つ別のやり方で本自体に大きな仕掛けをしたいと思いました。
『N』の場合は読む順番によって世界の色が変わる、読後感が大きく変わるというコンセプトでした。今度は読む順番によって本当にストーリーががらりと変わってしまうようなものを作れないかと考えたんです。でもこれ、誰に話しても無理だと言われたんですよ(笑)。

── それは、誰が聞かれてもそう答えます(笑)。

 どうにか方法はないものかと考えに考えて、核になる二つの物語が浮かびました。そうか、これとこれの組み合わせだったら読む順番によってまったく結末が変わるし、主人公たちが生き残るか死ぬかが決まる、と。

── 核となるアイデアを思いついた瞬間に、物語も決まったんですか。

 そうですね。岡本太郎さんは太陽の塔を作るときに、まず小さいものを作って、次にもう少し大きいものを作って、と段階的に大きくしていって最終的にあの大きな塔を仕上げたといいます。僕も同じようにまず凝縮したプロットを作って、それに肉付けしていくというやり方をしました。最初のプロットの時点で短編小説ぐらいの長さがありました。

── 小さいものから大きくしていったというのは建築的な方法ですね。

 そうですね。今回、岡本太郎さんがなぜそのやり方をしたかがよく分かりました。なるほど、最初から全体像が見えてないと怖いんだなと。

── こういう書き方で小説を書かれたのは初めてですか。

 そうです。いつも大枠のプロットは決めますが、登場人物が動き出すと絶対にプロット通りには行かないんですよ。今回は動き出してもらっては困るので、登場人物たちを育てていく感じでしたね。一か所でも齟齬(そご)があったり、矛盾があったりすると、このコンセプト自体が崩れてしまうので、そこには気を遣いました。

「あなたの選択」が生死を分ける

── 本を手に取った時点でまず驚きがありますね。『N』もそうでしたが、二編の小説の上下が逆に印刷されています。

 二編とも普通に印刷製本されていると、ほとんどの人は最初の一編から読んでしまうと思うんですよ。それを止めるために、ひっくり返った章が先に入っているという配置にしました。

── 本を開くと、二つの意味深長なエピグラフのあとに、著者からのメッセージとこの本の読み方が書いてあります。

 あなたの選択によって主人公を含め多くの人が死ぬか生き残るかが決まります、と。

── ルールを分かった上で、二編の小説、「ペトリコール」と「ゲオスミン」のどちらから読むかを読者が決める。これは難しい選択です。私も悩みました(笑)。先ほど核となるアイデアが生まれたときに物語も一緒に決まったということでしたが、キャラクターもすぐに決まったんですか。

 そうです。タイトルもその時点で決まっていました。『N』の系列なので、上下をひっくり返しても同じ形になるアルファベットにしようと決めていて、それで『I』。I amの「I」ですね、自分とは何か、私とは何かというテーマを込めた作品になると思ったので、タイトルと登場人物は同時に決まりました。

── 二編のうちの一編の主人公、小峰夕歌(こみねゆうか)という高校一年生の女の子がまさしく「私」という問題に直面している人物ですね。先ほど登場人物が動き出すわけにはいかなかったとおっしゃっていましたが、動きが少ない分だけ、そのキャラクターへの思い入れが強くなる部分もあるのかなと思ったんですけど。

 実は小説を書いていて、主人公が生まれたときから現在まで書くってなかなかないんですよ。頭の中で設定はありますけど。今回、週刊誌のルポ形式で彼女が生まれたときから今までの人生を書くことになったので、そのおかげで思い入れが強くなりましたね。最初から彼女が3Dで僕の中に現れてくれて、振る舞いとか思考の癖がすごく書きやすかったです。

── 小峰夕歌を主人公にした恋愛を含む青春の一編と、田釜雪夫(たがまゆきお)という男性が復讐を企てる一編。どちらも主人公の一人称ですが、ただの一人称に終わらない仕掛けがあります。

『I』では「私とは何か」ということを追求したかったんです。日本の私小説は英語でI-novelと言いますが、そもそも一人称の小説が持つ特殊性ってあると思うんです。彼や彼女が見聞きしているものや考えていることだけが文章化されて、それ以外は書かれていないっていう。たとえば映画で一人称に近いカメラワークを採用しても、画面に映るすべてのものをその主人公が見ているわけじゃない。画面の端を飛んでいる鳥に主人公は気づいていないかもしれないし、視聴者と主人公のあいだに、どうしても情報の齟齬が出てくる。でも小説の一人称ならその齟齬をなくすことができるので、いったい何が作中の「私」をつくり上げているのかを理解できるんです。

── 二編はリンクしていて登場人物も重複していて、舞台となるのが砂ノ町(すなのまち)。海があって、沖にある小梨島(おなしじま)とは細道でつながっています。小梨島には顔喰い鬼の伝説があって物語とも関わってきます。『N』でも「つ」の字の形になった湾のある町が舞台になっていて想像が広がりましたが、町から考えるのが道尾さんの作品の特徴ですね。

 主人公たちが町の中を移動するじゃないですか。夕方のうちにここからここまで歩けるということはこのぐらいの規模感なんだなとか、だんだん書きながら町の姿が見えてくるんですよ。あれがとてもいいですね。

── 読者も物語の町を歩いているような感じがすると思います。

 スティーヴン・キングみたいに、町といえばキャッスルロック、みたいな一つの町を舞台にするのも面白いんですけど、僕はその都度、新しい町をゼロから作りたいんです。

── 町を作るという発想も、面白い構造の小説を作ることと重なる部分があるかもしれないですね。『N』『I』と来て、まだこういうアイデアは出てきそうですか。

 今のところはまだ結末が変わる以上にインパクトのあるものは思いつきません。思いついたらやりますけどね(笑)。

── ふとこういうことができないかなって思ったりするんですか。

 そうですね。こういうことができないかなというよりも、ないものに気づくことが多いですね。「そういえば、こういうのないな」って。それが建築物だったら僕には作れないですが、文章なら一人で作れる。こつこつ、こつこつ、その日から作り始めることになります。