四度にわたる自殺の失敗、最後は愛人と玉川上水に…
さて、太宰の「死にたがり」遍歴はこうだ。
最初は20歳だった1929(昭和4)年11月、旧制高校期末試験の前夜のことだった。睡眠剤のカルモチンを大量摂取したものの、失敗に終わる。太宰はカルモチンを常用しており、用法用量をよく心得ていたはずなので、はたして致死量を誤るのかどうかは疑問が残るところだ。
なお、この自殺未遂は、左翼思想に傾倒していた太宰が左翼活動家の一斉検挙の情報を掴み、検挙から逃れるための対応だったのではないかとの説もある。
この翌年、東京帝国大学に入学した太宰は、弘前で馴染みだった芸妓・紅子(のちに最初の妻となる小山初代)を東京へ足抜けさせて同棲を始めた。しかし、それを長兄・文治に詰問され、初代との結婚は認められたものの、津島家から除籍されることとなった。
するとその10日後、知り合ったばかりの銀座のカフェの女給・田部シメ子と鎌倉腰越で入水心中を図る。カルモチンを摂取したうえでの入水であったが、結果的に死亡したのはシメ子だけだった。この心中未遂が、初代との結納直後だったというのだから驚きである。
三度目は、1935(昭和10)年3月、鎌倉八幡宮裏山での首つり失敗だった。これは単独での自殺未遂であった。この年は太宰が何度も先延ばししながらも、実家に対して約束した大学卒業の期限だった。ところが結局卒業の見込みは立たず、起死回生を狙った都新聞(現在の東京新聞)の入社試験にも失敗した。
その末の自殺決行であったが、用意した縄が切れて失敗する。首にしっかり真っ赤な縄痕を残してすごすごと帰宅することとなった。しかし、この報に仰天した実家からは仕送りが継続されることとなり、一時的であれ太宰と初代夫婦は東京での生活を続けられることになったのだから不幸中の幸いといえるだろう。
1937(昭和12)年3月、妻・初代との心中未遂が四度目となった。心中に至った理由は、薬物中毒や度重なる芥川賞落選などで心が荒んだ太宰に耐えきれず、浮気に走った初代との仲を精算するためということだった。ただ、このときも使ったのはカルモチンで、案の定、ふたりとも命に別状はなかった。
この四度にわたる「死にたがり」はいずれも、自分自身の手に負えない状況に行き詰まった末の逃避や甘えのように見える。その証拠に、その後の10年間は「死にたがり」の虫が姿を見せていない。心中未遂後に初代と別れ、別の女性と結婚して子供をもうけており、表面的にはモラトリアムのような時期であった。
しかし、四度目の自殺未遂から10年後、性懲りもなく妻以外との女性と恋愛関係に陥った太宰は、1948(昭和23)年6月、恋愛相手である美容師の山崎富栄に迫られるように玉川上水に投身した。
五度目にして自殺が成就してしまうのだが、このときにも太宰が本当に死のうとしたのかを疑う声が挙がった。検死の結果、入水したにもかかわらず太宰はほとんど水を飲んでいなかったのである。つまり、溺死ではなく、入水前に富栄に殺されていたとも推察されるのだ。
ふたりの遺体が発見されるのは入水から5日後の早朝である。赤い紐でお互いの腰を固く結びあった状態で、すでに腐敗が進み、強い異臭が漂っていたという。
遺体が発見された6月19日は奇しくも太宰自身の誕生日だった。現在、6月19日は太宰の小説のタイトルから「桜桃忌」と名づけられ、毎年この日になると太宰の墓がある東京都三鷹市の禅林寺を多くのファンが訪れる。
監修/朝霧カフカ 写真/Wikimedia Commons、Shutterstock













