大地主の家に生まれるも愛情には恵まれない幼少期

太宰治は、1909(明治42)年、青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)で「金木の殿様」と呼ばれた津島源右衛門の六男として生を受ける。本名は津島修治である。

明治維新とともに金融業に乗り出した津島家は当時最盛期を迎え、青森で三番目という大地主にまでなっていた。父の源右衛門は衆議院議員から高額納税者として貴族院議員に、兄の文治も衆議院議員、青森県知事、参議院議員を務めるという家柄だった。

小作人300人に任せる津島家の田畑は2000ヘクタール、東京ドーム約430個分にもあたる。現在では「斜陽館」という名で公開されている実家には、19もの部屋があって使用人が30人もいたという。

青森県五所川原市の農村地域 写真/Shutterstock
青森県五所川原市の農村地域 写真/Shutterstock

太宰は多忙な父と病弱な母に直接育てられることはなく、5~6歳までの人格形成期におもに接していたのは、母親代わりの母方の叔母・キヱと子守の少女・たけくらいであった。この幼少期の環境こそが太宰ののちの人生に大きな影響を与えている。

生まれつき敏感で人間を恐れるような質ではあったが、裕福な家庭に生まれながらも両親から十分な愛を受けずに過ごしたことで、太宰はどこまでも満たされない愛情に対する渇望と強い依存心を抱くようになっていた。

その一方で、学業では旧制高校まで大秀才として過ごす。それが一種の“放蕩者”へと転じたのには、実家の豊かさが影響を及ぼしている。

旧制弘前高等学校に入学した18歳の1927(昭和2)年、彼は当時の一般的な勤め人が稼ぐ数倍もの仕送りを受け取りながら、流行りのプロレタリア思想にも染まる。その矛盾に悩んだ反動からか、多額の仕送りで花柳界に溺れ、女遊びにふけっている。

芥川龍之介の自殺に大きな衝撃を受けたのも同じ時期だった。この年の5月、青森での講演会で初めてその姿を目にした憧れの作家は、わずか2カ月後にはすでにこの世の人ではなくなっていた。

頬杖をついた芥川の肖像写真を真似て、のちに自分のプロフィール写真を撮らせたほど心酔していただけに、芥川自殺の報を知った太宰がどれほどの喪失感に襲われたのかは想像に難くない。