本書には、松本清張作品のストーリーやトリック、犯人等が記されている箇所があります。ご了承の上、お読みください。
女と性欲をモチーフにした「鬼畜」
清張は常に、人々が抱く黒い欲望や妄想の半歩先を、小説の中で描いている。
「死ねばいいのに」と思っている相手を、殺したならば。情欲を抱いた相手と、いちいち「して」みたら。会社の金を奪ってみたら。……等々、実際には行わないながらも多くの人がチラと夢想する行為の数々が、清張の小説の中では具現化されている。
「歯止め」にしても、同様である。高度経済成長期、父親が仕事にかかりきりになって母と子供が家に残される中、息子に対して、性的にも力になってやることができれば、と思った母親は存在したことだろう。
AV業界では、今も母子相姦ものが人気であることを考えると、母子の性的密着は、まんざらありえない話ではないのだ。
欲望の半歩先を描くことによって多くの読者を得た清張だが、特に金、地位、そして性に対する欲望は、作品の中で頻繁にクローズアップされている。
それらは、もともと男性にとっては「抱いて当然」の欲望だったが、そのような時代に男と同等もしくはそれ以上の欲望を女にも抱かせたところが、清張作品の特徴である。
性欲についても、ただ男性の欲望を受け止め、従うだけでなく、自身の性欲を躊躇なく溢れさせる女性が、清張作品にはしばしば登場する。
初期の作品から、女と性欲というモチーフは登場する。たとえばそれは、昭和32年(1957)に発表された悪女ものの名作「鬼畜」。
印刷店を営む、宗吉とお梅の夫婦。宗吉は外に女を囲って三人の子を産ませていたが、店の経営が傾くと、女は三人の子を宗吉のところに置き去りにし、いなくなってしまった。
激怒したお梅は、他人の子を育てるつもりはない、と子供たちを邪険に扱う。のみならず、子供をどうにか始末するよう、宗吉に指示するのだ。
一人は病気を放置し、衰弱死。もう一人は東京に連れていって置き去りに……と、子供が一人ずついなくなる度に、お梅は宗吉に、夜の行為を激しく求めるのだった。
夫婦は「共通に無意識の罪悪を感じていた。その暗さが、いっそうに陶酔を駆りたてた」。
お梅は行為のさなか、「身体を執拗に宗吉に持ってきた」。かつて見られなかった能動的なお梅の動きには、罪の意識だけでなく、嫉妬や一種の達成感によって昂じたねばつく性欲がこめられていよう。
1960年代になると、女の性欲に注目した作品は、目立って増加する。この時代、医師の謝国権が書いた『性生活の知恵』が、ミリオンセラーに。
今読むと、夫婦に向けた性に関する真面目な指南書なのだが、当時の日本人は、この本に大興奮。10年にわたって200万部以上が売れ続け、映画化までされている。この本に刺激され、奈良林祥、ドクトル・チエコといったセックス評論家たちが登場して大量の性のハウツー本が刊行されるようになり、週刊誌にも、セックス記事が溢れるようになる。
若者の世界においても、「平凡パンチ」などの雑誌によって、セックスに関する情報が供給されるように。既婚者だけでなく、独身者にも性情報がもたらされるようになったのだ。
すなわち1960年代は、セックスについての話題がカジュアル化した時代だった。セックスは後ろ暗い秘め事ではなく、誰もがするレジャーのような行為として認識されるようになる。