『青いベンチ』ヒットも苦しい5年間

学生時代に付き合っていた彼女は、クラス会に来るだろうか……。思いをぶつけきれなかった淡い恋への後悔を歌った『青いベンチ』はサスケの代表曲だ。SNSのない時代、無名デュオの“崖っぷちの一曲”はガチのクチコミのみでヒットし、リリースから21年がたった今でも令和のティーンたちに脈々と愛されている。奥山裕次(47)と北清水雄太(47)がサスケの解散、再結成を語ってくれた。

――まずは『青いベンチ』がヒットしたときのことを教えてください。

奥山裕次(以下、奥山) もともと、僕らは幼稚園の同級生なんですが、高校で再会して。今は47歳です。

北清水雄太(以下、北清水) 夢を追いかけ、埼玉県の大宮駅で路上ライブを始めたのは20歳を過ぎてから。『青いベンチ』は2003年10月にインディーズで、大宮のCDショップ1店舗限定で500枚だけ出したら活動終了というのが当時の事務所との約束でした。

奥山 当時、深夜番組の『ストリートファイターズ』(テレビ朝日系)っていう、アマチュアのストリートミュージシャンを紹介する番組があり、取り上げていただけて。

北清水 500枚があっという間に売り切れ、再販の5000枚も完売。「これは大変だ」となりまして、大逆転で2004年4月に全国発売。1年以上、オリコンチャートの100位前後をうろうろし続けたこともあり、ファーストミニアルバム『Smile』を2004年10月に出せて。インディーズながらメジャーチャートの初登場8位、最高は3位までいって。「サスケって誰だ?」ってなりましたね。

奥山 そこから『青いベンチ』もチャートで急上昇しまして。

北清水 リリースから1年半以上たってのトップ10入り(8位)。ネットがまだ今ほど普及していない時代だったので、本当のクチコミで広がっていって。僕らが夢をつかめた曲なんです。

奥山 26歳くらいでしたね。

――『青いベンチ』30万枚、『Smile』は45万枚を売り上げた。さらに『青いベンチ』は中高生の合唱コンクールの定番ソングとなり、2008年には音楽の教科書に掲載されるまでに。しかし'09年にサスケは解散。順風満帆かと思いきや、どうして?

北清水 実は僕らって、その後はフルアルバム(『『青いベンチ~好きだった...誰にも言えない恋だった』)を1枚出しただけ。しかも解散の年に。これには当時の事務所の考えもあったと思うんですけど…。

楽曲はストリート時代からのストックもあるし、ずっと書き続けていたんですが、なかなかゴーサインが出なくて。まだまだ自分たちの実力不足もあったと思うんですけど正直、すごくジレンマがあったし、すごく苦しかったですね。

奥山 通常、新しいアルバムを出したら新しいツアーをやるものなんですが。セットリストがミニアルバムの7曲と未発表曲という状態で2時間のライブを毎年ってなると、やっぱり限界はありました。

北清水 自分たちなりにもがきながら。来てくれたお客さんと一緒に『青いベンチ』を歌う瞬間はとても幸せでしたが、ものすごく苦しい5年間でもありました。そんな中、当時の事務所を離れることになりまして、自分たちなりのけじめとしての解散でした。