人生の転機となったライブ

1994年に発売された「DA.YO.NE」は、日本語ラップ曲として初めてミリオンセラーを記録。続く2ndシングル「MAICCA〜まいっか」はその売り上げを上回り、デビューから2作連続でミリオンを達成――。

ヒップホップユニット・EAST ENDと、当時はアイドルグループ・東京パフォーマンスドールのメンバーであった市井由理が1994年に結成したEAST END×YURIは、日本語ヒップホップを一般層に浸透させたパイオニア的存在だ。

「EAST END×YURIの結成は自然な流れでしたね。友達だった由理ちゃんに『ラップを教えてほしい』と言われて、教えてるうちに、せっかくだからと彼女のライブにゲストで出ることになったんです。

女子のライブですから、当然お客さんは男が多かった。我々は『罵声を浴びせられるんだろうな』と思いながら行ったんですけど、その日のために作ったラップを一生懸命やったら、想像をはるかに超えて盛り上がった。なんなら自分たちのソロライブよりも盛り上がったかも(笑)。あれは、人生の中でも転機になったライブの1つだと思います」(以下、GAKU-MC)。

転機となったライブについて語るGAKU-MC 撮影/廣瀬靖士
転機となったライブについて語るGAKU-MC 撮影/廣瀬靖士
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1990年代前半のアメリカのヒップホップは、人種差別への抵抗や貧困、暴力性や自己顕示を歌詞に載せる作品がチャートを席巻。一方、日本ではまだまだアンダーグラウンドの存在だった。そんななか、高校時代にヒップホップに出合ったGAKU-MCはラップの道を志す。

「大学時代は毎日日焼けしてアフロにして、とにかく黒人の動きを真似してました。でも、黒人の友達に『なんで俺らの真似すんの? 文化も違うし、そのままでいいじゃん』って言われて、考え方が変わったんです。

彼らは彼らの悩みの中で作ったアートがヒップホップ。じゃあ日本人の僕はどんな悩みを持ってるんだろうって考えたら、もっとパーソナルなものだなって。人種差別はわからないけど、『自分自身がわからない』『どう暮らしていけばいいかわからない』といった悩みは僕にもある。そういうところにフォーカスするのが、日本のヒップホップの姿なんじゃないかなって思えたんですよ」