「桜花」を護る決意

1944(昭和19)年11月、野口は第七二一海軍航空隊に選抜され、翌1945(昭和20)年2月1日、同航空隊第三〇六飛行隊へと配属される。

着任した基地の格納庫で初めて「桜花」を見た。そのとき野口はこんな感想を抱いたという。
 
「プロペラは付いていないし、操縦席にある計器も2つか3つしか付いていない。シンプルな形状なのに機体後部(尾部)にはロケットが3基付いている。この変わった機体で、いったいどうやって戦うのだろうか……」と。

野口が初めて見た「桜花」は不思議な形状をしていた。

胴体と尾翼は軽合金製だが、主翼は木製(一部の機体は鋼板製か軽合金製だった)。簡素化された操縦席にある計器は速度計と高度計、傾斜計の3つのみだった。

「上官の説明により、この『桜花』は一式陸攻に積んで運ぶのだと知りました」

そして、野口は、そこでようやく自分の任務を理解することができたと言う。

「第七二一海軍航空隊に所属する私たち『ゼロ戦』の操縦士は、『桜花』を搭載した一式陸攻を目的地まで護衛し、切り離された『桜花』の特攻を敵戦闘機から護ることが任務なのだ」と。

このとき、野口の心の奥底で強い覚悟が芽生えていた。
「何としてでも、この“神雷(=桜花)”を護らなければならない」と。

野口はさらにこう続けた。

「神雷部隊は、他にはどこにも存在しないのだ。日本に、たったひとつしかない特別な部隊である。私は、その一員なのだという誇りを持ちました」

特殊任務を背負った第七二一海軍航空隊は実戦訓練を積み重ねながら基地を転戦していった。

写真はイメージです(写真/Shutterstock)
写真はイメージです(写真/Shutterstock)

九州・宮崎県の南西端にあった都城の基地へ「ゼロ戦」で向かったときのこと。

「目的地近くの上空から2つの基地が確認できました。1つの基地には、ほとんど戦闘機などが駐機しておらず、もう1つの基地には、多くの機体が駐機していたので、『おそらく、こちらだろう』と推測して降下し、着陸したら、そこは陸軍の基地だったのです」

初めて訪れた基地だったため、間違って着陸してしまったのだ。

「操縦席から降りると、向こうから陸軍の隊員が走ってきました。『ここは陸軍の滑走路だぞ! まあいい。今日は、ゆっくりここで泊まっていけばいい。明日、海軍の基地へ戻ればいいから』と言ってくれたんです」

海軍と陸軍は互いに仲が悪かった……。

現代では、それが“神話”のような史実として伝えられているが、そうではない兵士も少なくなかったようだ。あるいは、野口の実直な人柄が、陸軍兵士に素直に、そんな優しい言葉を言わせたのかもしれないが……。

取材中、この話になったとき、野口が一枚の古いモノクロのスナップ写真を見せてくれた。

飛行服で全身を包み、飛行帽をかぶった精悍な顔つきの若き日の「ゼロ戦」操縦士、野口剛が立っていた。後ろには軍用機が写っている。どこかの基地のようだが……。

筆者は写真に見入り、「鮮明な写真ですね。いつどこでこれを撮影したのですか?」と問うと、野口は柔和な笑みを浮かべながら説明を始めた。

「ここに写っているのが、今、お話しした私が間違って着陸した陸軍の基地なんですよ。『ここは陸軍の基地だぞ』と、教えてくれた兵士がそのときにカメラで撮影し、翌日、現像して届けてくれたのが、この一枚の写真です。カメラが好きだと話す、本当に優しい青年でしたね」