監督退任後バラエティー番組にも出演し、新たなイメージも定着 

時は流れ1981年1月11日・18日合併号では、第一次巨人監督退任後の長嶋さんの心境について、野球評論家の吉田憲生氏がこう綴っている。 

『週刊明星』1981年1月11日、18日合併号より(撮影/阪本敏文)
『週刊明星』1981年1月11日、18日合併号より(撮影/阪本敏文)

《「男としてのけじめをつける」という言葉を残して、長島(原文ママ)は巨人を去った。

球団は重役として迎えようと躍起になっているが、長島には復帰の気持ちはさらさらないようだ。
(略)
長島は退団のいきさつについては「思ったより根が深かった」とひと言しかいわなかったが、これはシーズン中批判を浴びせつずけてきたOBが、長島の考えていたところより、もっと上の権力と結びついていたことを、知らされたからだろう。
(略)
では、これからどうするのか? 「いろいろお誘いを受けていますが、正月から、ぼつぼつゴルフをやったり、まず自分の時間をもち、何をやるかを決めるのはそのあとですね。今は白紙ですよ」ということだが、話しぶりから察すると「ここしばらくは、誰にも拘束されずに、自由な立ち場で、野球を見つめる」ことになりそうである。》

『週刊明星』1981年1月11日、18日合併号より抜粋

『週刊明星』1981年1月11日、18日合併号より(撮影/阪本敏文)
『週刊明星』1981年1月11日、18日合併号より(撮影/阪本敏文)

その言葉通り、自由の身になった長嶋さんは、この時期からスポーツ番組のみならずバラエティ番組にも出演するように。

独特のワードセンスや息子の“(長嶋)一茂を球場に置き去りにした”などの伝説が語られ、「面白いおじさん」のイメージも定着。

1981年1月25日号では、共にCM撮影のためにハワイを訪れていた王貞治さんと長嶋さんが、ひさびさの“ONコンビ”としてゴルフ場に並ぶ姿が見られた。

野球よりもゴルフの話で盛り上がり「長嶋さん、すごくいいみたいじゃないですか」と王さんが言えば、長嶋さんも「そうなんだよ。毎日ゴルフ、ゴルフさ。スコアもどんどん上がってるよ」と笑う姿があった。

高倉健さんをはじめ、銀幕スターの石原裕次郎さんとも親交の深かった長嶋さん。『週刊明星』での対談企画は複数回にわたり、1982年4月15日号では、元NHKアナウンサーの小川宏さんの冠ワイドショー番組『小川宏ショー』の最終回ゲストとして登場した石原裕次郎さんと長嶋茂雄さんの2ショットを捉えている。

石原さんは長嶋さんを“シゲ”と、長嶋さんは“裕次郎さん”と呼び合っている。

《「シゲがデビューしたのが33年、オレが31年。シゲが第1号ホームランを打ったときのバットがオレの家にあるんだ。家宝にしてるよ」と裕次郎。お互い青春時代に父を亡くし、かたや映画に、かたや野球へと突進していった。進む道は違っても、状況は似かよっていたのだ。「父の死水をとるとき、手を握ってくれて、やるなら日本一の選手になれ!と激励してくれたんです」と長島(原文ママ)。“日本一”を極めたふたりも、支えになってくれたカミさんの話になるとさかんにテレるだけ。スーパー・スターのウィークポイントは意外なところにあった。》

『週刊明星』1982年4月15日号から抜粋

『週刊明星』1982年4月15日号より(撮影/原田務)
『週刊明星』1982年4月15日号より(撮影/原田務)
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『週刊明星』は1991年に終刊したが、長嶋さんを最後に捉えたのが1988年2月4日号の田原俊彦さんとの対談だった。かねて長嶋ファンで「野球選手になりたかった」時もあったという田原さんの猛烈ラブコールにより実現した企画で、長嶋さんは「結局は人生は己のこと。自分自身がどういうスタンスで生きるかだから」と語っていた。

長嶋さんの葬儀や告別式は近親者のみで執り行なわれ、後日、お別れの会を開くという。いつの時代も紳士的で前向きで笑顔とユーモアのあった長嶋さん。ご冥福をお祈り申し上げます。

文/集英社オンライン編集部ニュース班