タワマンは一本でかつての村落規模の人口を有する
50階近いタワーマンションはワンフロアに20から30の住戸が配置され、実質1000世帯近くが暮らしている。
1000世帯といえばその人口は3000人規模であり地方の村落の規模である。市町村合併前ならば村議会や町議会もそなえ、庁舎や郵便局に農林中金や信金などの金融機関さえ存在していたであろうコミュニティの規模といえる。
今、東京の湾岸エリアではこのような3000人4000人規模のタワマンが、ひとつの街区や埋め立てでできた人工島に、5本も6本も建つ。数キロ圏内の人口が2万、3万を超えており、10万にも及ぼうとしている。
そのような人口規模にもかかわらず、不動産開発の拙速な進行にインフラの整備や公共サービス拠点の設置が追いつかず、住民生活に多くの不備がある。
同時に低層階での商業施設や行政サービスなどの誘致空間を義務づけなかったため、これだけの人口増加に対して、社会機能の追加設置をおこなうことが困難になってしまっているのである。
また、超高層計画における総合設計制度は、公開空地の義務づけなどもあり、ほぼ人工的に舗装され、管理しやすい低木の植栽がチラホラ植えられているだけで、最小限の緑地しか存在しない。
このようなエリアはもともと工業地帯や倉庫街であったため、街区は大きく、道路も広い。幹線道路の通り抜けには優れているが、公共交通機関や駅までの歩行空間の整備もなく雨の日はビル風と相まって、傘をさしていてもずぶ濡れになってしまい、夜間も寂しく広く暗い街区を数百メートル歩いてやっとエントランスにたどり着く。
市バスやタクシープールも足りず、まるで私鉄沿線で始められた郊外地の開発初期段階のような様相で、最初の生活のインフラがまるで整っていないのである。
また、街区の広さの根拠は、超高層を成り立たせるための制度的空地でもあるため、空き地として、将来路面に商店街が形成される可能性もない。ならば、完全車社会で暮らせるかというと、世帯全員分の駐車場が確保されているわけでもない。
当然ながら住民同士のコミュニティも、通りや路地、庭といった家庭間の中間領域が存在しないため、隣近所という概念がなく、物理的生活空間ごとには、町内会のようなまとまりが形成しづらい。それぞれの家庭は職場や趣味の繋がりを地域外部に持ち、個別のセルが集合しているだけの状態であり、村落共同体としても成立していない。
もちろん、そのような近隣との付き合いが煩わしいという前提で、このような生活基盤を都市に求めている家族の存在が多いのも事実であろう。
しかしながら、高齢化による体力や活動範囲の低下、病気や怪我などによって生活の弱者となった場合に、また災害時の緊急事態において、こうしたコミュニティに所属しない家庭の有り様は脆弱と言うほかはない。
それだけでなく、生活スタイルというものは、家族構成や就学、就職で容易に変化する。入試等によって通学するエリアが遠くなった場合、企業の移転や異動によって通勤の利便性が失われたり、収入変動でパートに出ることになったり、といったような変化に対応可能な、別の交通手段や隣の町、近隣の他の事業所等々の選択肢が少なく、人口が多いわりには、商業地の多様性も育っていないのだ。
たとえば、人間関係の問題などによって、不意の出会いを避けるために、これまでと方向が逆の道を行くとか、反対側の街に通うとか、別の路線で買い物をするといったような対応が難しい。
このように臨海部の新興超高層住宅エリアでは、都市のつくられ方が初めから完成形で成長の余地や余白の部分がまったくなく、冗長性があまりに不足しているとしか言いようがないのだ。
都市とは本来なら、成長とともに人が増え、人とともに成長していくものであり、建物が完成したときが都市の完成ではないのである。
今現在おこなわれている将来の変化に対応していない超高層マンションのまちづくりには、問題の先送りが多々見受けられるのである。
特に筆者が懸念しているのが、タワマンの大規模修繕の時期である。