建材選択の場で起きている「失敗したくない、安心な選択」という現象
その一方で、木に見えるけどメラミン化粧板、石に見えるけどメラミン化粧板という状況は、本物の素材生産者や、加工技術や仕上げ技術をもった造作大工や石工の職を奪うことになった。
すっかり、本物の素材を扱える技術をもった昔気質の建設職人が減ってしまい、職人そのものの人手不足の事情もあって、必ずしも内装コストの削減だけを目的としたファスト化ではなく、他に選べる素材がないという状況も現在の工事現場では数多く見受けられる。
廉価であるということを理由としてフェイクの化粧板が選ばれることも多いが、その一方で、本物の自然素材が仮に高価なものであっても、素材色や模様の不安定さや、衝撃による傷つきやすさ、湿気や紫外線などによる変色や劣化などを受け入れることができない場合、フェイク素材のほうこそを選ぶということも起きている。不燃かつ硬度も高く模様や色味についても安定しているからである。
飲食店の選択で既に確認されていることだが、ファストフードを選ぶときの顧客マインドに「安かろう、そこそこだろう」という理由だけではなく、「失敗したくない、安心な選択」という性向もまま見受けられる。
それと同じように、建築工事や建材選択の場でも「失敗したくない、安心な選択」という現象が起きている。
かつての簡易な事務所建築や農作業小屋などで見られたような、プリント合板やカラー鉄板、波板というキッチュでフェイクな素材を、ただ単に安価だから使っているんだという理由ではなくなっているのだ。
むしろ、フェイク素材ならではの安定性、平均的な安心感、最新の技術が盛り込まれた機能素材としての良さを評価し始めているのである。
また、十数年以前の店舗オーナーや建設業のプロと違ってきているのは、当時は建設の目的と、客単価やサービス内容に応じて「本物の良さは知っているけれども、本物ならではの管理の大変さを考えた場合に、そこまで稀少で高価でなくともよい」という、ピンからキリまでの広範囲な素材知識と、その効果と意味と費用を前提した判断があった。
だが、ファスト建材であるフェイク素材が巷に満ちあふれた結果、これからの顧客や建設業者は、これまで体験した店舗や建築空間において、木も石も何もかも本物の素材を見たことも取り扱ったこともない、という世代にかわっているのである。
つまり、フェイク素材がフェイクではなく、それこそが一番よく見るリアルな素材となっているのである。「木目調の人工素材」ではなく、「木目を印刷したものが建材」という認識である。
そのような、建築と素材の関係が、現在、急速に進んでいる商業建築のファスト化と一体となって、どのように影響を及ぼしていくのかは未知であるが、現時点で分かっていることは、益々そうした本物に触れる機会は我々の日常から消失していき、フェイク素材はさらなる本物感へと進化していくことだろう。
そのときファスト化した建材を本当にファスト化と呼べるのかどうか、「本物の素材という指向」という、その考え方こそが、日常から非日常のフィクションの彼方に遠ざかっていくのかもしれない。
その証拠に個人の趣味が良くも悪くも反映され、建築の法制限も緩く、注文しだいで本物の素材も使用可能な住宅工事の現場においても、こうしたフェイク素材は当たり前となっており、むしろ傷つきにくく汚れにくいあのチェーン店の素材と同じにしてほしい、といったような要望が、供給側のハウスメーカーではなく、顧客のほうから出て来るという。
住宅の営業マンからすると、素材選びの選択肢が少なくなり着工までの打ち合わせ期間も短縮できて、願ったり叶ったりなのであろう。だが、こうしたフェイク素材の弱点として、傷つきにくく汚れにくいだろうが、それでも傷つき汚れた場合には、本物の素材がもつ経年に対する風格、古民家がもつような骨董的価値といったものは生じない。
そもそも、そういった風合いに触れる機会がなければ、その良さも価値も分からないままであるのは自明である。
このことからも分かるように、良くも悪くも合理的選択と大規模に大資本が投下される大型商業建築の世界は、現在、日本中に展開し、その空間ではもっとも先鋭的なファストな建築デザインがおこなわれ、人々の体験を通じ、無意識にファストな建材への親和性を流布しているのである。
最初期の商業店舗であった百貨店が、人々に贅沢や豪華さを建築空間の中に広めていったのと同様に、現在の商業店舗を代表する大型商業モール内のチェーン店は、人々に安価で通俗な建築空間を広めているともいえるのである。
商業建築の人々への影響は大きく、そこがファスト化に転じたことで、日本人のライフスタイルのファスト化は、住宅建築や生活空間にも及んでいくのである。
文/森山高至