「メンタルが弱いところがあったんだと思います」
関東近郊の実家は、玄関先が綺麗に整えられた門構えの家が建ち並ぶ住宅地にあった。記者がインターフォンを鳴らすと「はい」と言う返事の数秒後、緊張した面持ちで矢沢容疑者の父親が出てきた。
「在宅で仕事中だった」という父親は、押し寄せた報道各社に対して1時間以上もの取材に応じた。以下はその一問一答。
――勇希容疑者は大阪で犯行を起こしていますが、大阪には何か縁があったのでしょうか。
いいえ。大阪には親戚などもいませんし、家族で旅行などで行ったこともないし、たぶん本人も大阪はもちろん西成には行ったこともないと思います。
――なぜ、今回のような事件を起こしてしまったと思いますか。
それが正直…なぜという感じです。勇希はもともと思い詰める性格でした。2024年元日の深夜に自殺未遂を起こしているんです。東村山署から連絡があり、勇希が住む部屋に駆けつけました。
その時、「なぜこんなことをしたんだ」と言うよりかは「実家に戻ってくるか」と言いました。すると彼は「いい、大丈夫だ」と。
大人の男だし「どうしようもなくなる前に言うんだぞ」とだけ伝えて、その後も彼が2度と自殺未遂をしないように私や妻も3ヶ月に1回くらいのペースで生存確認をしに行ってたんです。
――お父さんが最後に会ったのはいつなんですか。
ちゃんと話をしたのは去年の夏に2人で食事に行った時のことです。その時は自分から話すわけではなく、私の方からの「仕事はどうだ、順調か」とか「飯は食えているのか」などの問いに対し、「大丈夫」「うん」などとは言っていたし、笑顔も見られました。
最後に会ったのは去年の冬です。妻と2人で団地の前で待っていた時に会ったんですが、深く何か話せたわけではありませんでした。
――ではいったい、勇希容疑者は何を思い詰めていたと思いますか。
本当にそれがわからない。とにかく思春期の頃から心情をあまり語らない子でした。
小学校の時は、とても明るく活発でサッカーをやってクラブチームにも入っていましたし、私も妻も車出しなどをして親子の交流も十分にしていたと思う。でも高校2年まで続けていたサッカーもやめて、妻が心療内科に付き添った時期がありました。
私は男親だからそういうのはあまりわからなかったけれど、メンタルが弱いところがあったんだと思います。
――幼少期はとても活発だったけど、高校からかげりが見えてきたということですか。
もともと生まれつき免疫不全の疾患があり、点滴で疾患を治療しながら暮らしていました。その治療のおかげかサッカーもずっと続けてこれた。
高校は自ら選んだ学校でしたが、地元の中学から1人しか行かないような進学校に進んだこともあり、もしかしたらそこで孤立したのかもしれない。その当時、家ではサッカーの顧問からいじられるのが嫌だとは話していました。
――例えば何かあったときに話ができる友達とか彼女の存在はあったのでしょうか。
小中のサッカー仲間とは仲よくしていたけど、高校以降の交友関係はあまり分かりません。大学や就職してからの交友関係もわからない。
彼女の存在は1度か2度ほど思春期の時に「彼女でもいないのか」と聞いたが何も答えなかった。だからそれ以降は何も聞いていませんでした。