水上 勉『土を喰う日々─わが精進十二ヵ月─』(新潮文庫、1982年)
※単行本『土を喰ふ日々』(文化出版局、1978年)
人気小説家であった著者(水上勉)が長野県の田舎で自ら包丁を振るい、日々の食事や来客へのもてなしのために料理を作り続ける日々が1年にわたって描かれたエッセイです。その料理の基礎は、少年時代に禅寺での奉公で習いおぼえた精進料理。
あの独特のすがたをした小芋は、よくたわしで土をそぎおとしただけで、茶褐色のタテジワのよった皮をもっている。ぼくらはこの皮が、多少はのこるぐらいのところでやめる、独特の方法でむいたものだ。〈中略〉
ところが、テレビ番組の板前さんは、包丁を器用につかい、小梅ぐらいの大きさにまでむき、厚い身を捨てて平然としている。これでは芋が泣く。というよりは、つい先ほどまで、雪の下の畝の穴にいたのだ。冬じゅう芋をあたためて、香りを育てていた土が泣くだろう。
僕がそれまで無邪気に信奉していた「プロの世界の繊細な技法」を全否定するかのようなこんな価値観が、この作品の中では繰り返し語られます。僕にとってはパラダイムシフトとでも言いましょうか、ショッキングな読書体験でした。
しかし同時に、僕はこの世界観に対してどこかホッとするような、ある意味「我が意を得たり」とでも言いたい共感も同時に抱いていたのです。
例えば、習いおぼえたばかりの和食の世界では、葱や茗荷だけでなく、大根おろしも水に晒していました。僕は微妙にこれに納得がいっていなかったのです。水に晒した大根おろしからは、その独特の香りや辛味はほとんど失われます。
師匠にそのことを率直に言うと、「晒すことによって、雑味やエグ味が抜け、甘みだけが残って食べやすくなるんだ」という明確な回答が得られました。実際にお客さんからも「家で食べる大根おろしは辛いばっかりでちっともおいしくないけど、ここの大根おろしはおいしくてどれだけでも食べられます」という称賛を頂いたこともありました。
皮を分厚く剝き丹念に下ごしらえした野菜を、一種類ずつ微妙に異なるアタリ(和食用語で「味付け」の意味)のだしで煮含めた後、1つの碗に盛り合わせる「炊き合わせ」は、確かに精緻な技術の結晶でした。
しかしそれは子供の頃に祖母がこしらえてくれた、庭の畑で採れたての育ちすぎた野菜や裏山の筍をまとめてごった煮にする「煮しめ」ほど感動的なおいしさではない、ということも(決して口には出しませんでしたが)内心思っていました。
もちろん単なる田舎料理といえばそれまでだし、見た目も含めて料理屋にふさわしいものでもないことも充分すぎるほど理解してはいましたが。