料理屋、料亭は「公共」のもの
うちもそうですけど、料理屋、料亭として電話帳に載っている以上、これは「公共の施設」やと思っています。商売というのは、みんな「公共」です。その「公共」のものが、「普通の人が一生かかっても行けないようなところ」になっているというのは変な話です。
変なものは、いずれ遠からず、なくなります。普通の人に支持されないようなものは、長い歴史のなかで存続できたためしがない。
そういう意味で、いま危惧していることの一つが東京の鮨屋の、1人5万円とか7万円とか言われている事情。
ほっといてくれ、と言われるかもしれませんけど、これでは大衆に支持されてきた「鮨」という文化が日本から消えてなくなるんとちゃうか、と心配してます。
食べに行く方も、値段の高いのが上等やと思っているのかもしれませんね。昔は、文化人は金持ちやったんです。でもいまは、文化人は金持ちやない。
一方で、文化などとはあまり縁のない、お金だけは持っているという人、そしてそのお仲間が、お金を出せば「おいしいもの」が食べられると思ってあちこちへ出かける。そこに「食文化を楽しむ」というニュアンスがあるのかどうか。「料理」やなくて「価格」を食べてるんやないか、それが問題や、というわけです。
私は、そういう「お金さえ出せば」というような向きを、あえて「輩」と言いますが、そういう「輩」を相手に商売をする人達が私らの仕事の分野でも増えました。
そうなると、高い方が上等だという価値観ですから、「値段が高くて、狭い店」、8席とか10席でやるのですぐに満席になる、この先3か月も半年も予約が取れない、というような店が流行る、話題にもなる。そうなると、また予約を取りたい「輩」が増える。
そういう店が「何か月も予約が取れない人気店」とか「評判の店」になる。するとまた、そんなところをスタンプラリーみたいに回るのを自慢する「輩」がいて、来た時に次の予約を取って帰る。
これでは、普通の客はいつまでたっても入れない。そういう商売でいいのか、料理屋は「公共」のものという考え方はあかんのか、ということです。
そういう傾向の影響もあるのか、この頃、京都でも若い子がいきなり独立して、いきなり2万5000円とかの値段で商売しようとする。店の規模は、さっき言ったような8席とか10席ですよ。ちょっと受ければ、すぐに満席になる。それはどうなの、ということです。
私らは、最初は1万5000円ぐらいからやれと言うんです。それでお客さんの支持があったら、もうちょっと上げていくのはいい。けれども、いきなり2万5000円というのは、どうなの、と。そういうのは、京都の暮らし、つまりその街の「公共」とかけ離れているのとちゃうか、と。
結局、そういうのが受けるのは、わざわざ新幹線使うてやって来る東京のお客さんと、インバウンドだけ。でも、よその老舗の連中よりも高い値段でやって、東京の人しか来ていないけれど、それでいい、京都の地元の人は相手にしませんというようなスタンスならば、別に京都で商売しなくてもいいんじゃないか、よそでやったら、という話です。