メインカルチャー不在時代の「サブカル」とは
さて、ヴィレヴァンにおいて「選択と集中」がうまく機能しなかった例を見てきた。次は、②ヴィレッジヴァンガードが持っていた「サブカル」自体の意味の変容(=時代の移り変わりによる「選択」自体の間違い)について見ていきたい。
先ほども見てきたように、ヴィレヴァンを支えてきたのは「サブカル」という世界観であることはいうまでもない。
しかし、この「サブカルチャー」という言葉が厄介だ。
サブカルチャーの研究でも知られる劇作家の宮沢章夫が指摘している通り、そもそも「サブカルチャー」は「メインカルチャー」があってこそである。「中心」がないと「サブ=周辺」は存在しない。
しかし、時代が流れ、SNSを通じて人々の好みが多様化した現在、もはや「メイン」や「A級」という考え方自体が、ほぼ消滅してしまった。1990年代ぐらいまで、カルチャーのメインを作っていたのは、マスメディアだったが、ネットの発達以降、マスメディアの影響力も相対的に低下して、そもそも「サブカル」なる言葉の輪郭が曖昧になってしまった。
そうなのだ、そもそも「サブカル」自体が曖昧になってしまっては、いくらそこを「選択と集中」しようとも、その店内は曖昧で、どこかぼんやりしたものになってしまうのだ。
実際、①で指摘した問題のうち、商品構成などは、この「サブカル」自体が曖昧になっていることとも連動していると思う。
たとえば、最近のヴィレヴァンでは、YouTuberやVTuberとのコラボレーション商品も多く並ぶ一方、これまで通りのマイナーな文学作品や同人漫画などの取り扱いもあり、かと思えば売れ筋漫画も置いてあるといった風景で、ターゲティングがあやふやだ。
「サブカル」という言葉の輪郭が曖昧になるにつれて、その空間の演出も曖昧になってしまう。
「選択と集中」における「選択」したもの自体が、時代の流れとともに変容してしまったことが、ヴィレヴァンに必然的に「選択と集中」から遠ざかる道を選ばせたのかもしれない。
このように考えていくと、ヴィレヴァンの凋落の原因は、「選択と集中」の問題に深く関わっているといえるのだ。しかも、それはもはやヴィレヴァン自体の力ではどうしようもない。時代の力も関わっているから、より厄介だ。
ヴィレヴァンが「選択と集中」を適切に取り戻せるときはやってくるのだろうか。
文/谷頭和希 写真/Shutterstock