『不適切にもほどがある!』

「おい、そこのメガネ! 練習中に水飲んでんじゃねぇよ! バテるんだよ水飲むと! けつバットだー! 連帯責任!!」

時は昭和61年(1986年)、中学教師で野球部顧問の小川は、地元では「地獄の小川」として恐れられる存在だ。選手がエラーしたら「うさぎ跳び一周」、体罰は「愛のムチ」、教室でもタバコスパスパ……。そんな主人公がある日バスを降りたら、令和6年(2024年)にタイムスリップしていた……。これがTBS系ドラマ『不適切にもほどがある!』の設定だ。

「意識低い系タイムスリップコメディ!!昭和のダメおやじの『不適切』発言が令和の停滞した空気をかき回す!」という番組の宣伝文句通り、セクハラ、パワハラ、コンプライアンスなどという言葉すら聞いたことのない小川は、「不適切」発言を繰り返しては令和の人々をあきれさせ、正論を振りかざす相手には、「きもちわりぃ!」と吐き捨てる。

一方、サカエは、研究のためにタイムマシンに乗って、逆に令和から昭和にやってきた社会学者だ。体罰、セクハラ、パワハラ……。四方八方から浴びせられる「不適切」発言に驚愕し、正論で真っ向勝負する。

昭和から令和へ、令和から昭和へ。

半年にわたってタイムトラベルした二人の価値観はしだいに揺さぶられ、それぞれの「常識」が崩れていく。そして二人とも、元の時代に戻ってきた時には、それぞれの時代特有の生きづらさに気づかされるのだ。

写真/shutterstock
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昭和と令和、どっちが良い?という話ではない。また、『不適切にもほどがある!』というドラマに対して「不適切だ!」と正論を振りかざすような野暮なことはしたくない。ただ、昭和と令和、それぞれの時代特有の「生きづらさ」について考えてみたいと思う。

コンプライアンスという概念も、それによる規制も存在しなかった昭和を、「おおらかな時代だった」と評価する視聴者も少なくないと思う。ただ、言いたいことが言えたのは強者だけであり、弱者にとってはあからさまな差別に耐え忍んだ抑圧の時代だった。

令和ではあり得ないようなわいせつ映像や差別表現が地上波で飛び交っていた時代。そう考えると、SNSを通じて一市民がネット上で「それダメでしょ!」と批判の声を上げられるようになったのは間違いなく前進だ。

一方で、SNSが幅を利かせる令和は、人々のコミュニケーションのあり方が根本から変わり、人が人として出会うことが難しくなった時代でもある。昭和から令和に戻ったサカエは言う。

「言いたいことはSNS。気に入らない相手はブロックっていう風潮。なんかモヤモヤ。私も昭和で変わってしまったのかしら」

匿名で無責任な言葉の暴力をネット上で繰り返す人たちも現れた。第8話では、バッシングを恐れ、いかなるリスクをも排除せざるを得ないテレビ局の苦悩が描かれた。番組を観てもいない関係のない人たちが、匿名で、自分の承認欲求を満たすためだけに、寄ってたかって個人を攻撃し、断罪する……。

人々が超多忙で、そのうえ情報過多の社会だ。だから「コスパ」(費用対効果)ならぬ「タイパ」(時間対効果)が重視され、誰かによって切り取られた情報がいとも簡単に拡散され、実体のない「世間」をつくりあげていく。

これは奈良教育大学附属小学校へのバッシング*4とも重なる。附属小に行ったこともない、生徒たちを見たこともない、教育の専門家でもない大勢の人たちが、一部メディアによって切り取られた報道を拡散し、附属小の指導は「不適切」と断罪した。

当事者は、反論しようにも相手がいないのだ。「世間」の関心はすでに他の「不適切」事案に移っているのだから。