元明石市長で衆議院議員も務めた泉氏の恩師にあたる、石井紘基の死から22年。石井氏と生前交流のあったジャーナリストの今西憲之氏を司会に、今回の本で泉氏と対談を行なった、石井紘基をよく知る3名もゲストとして登壇。

石井氏の長女である石井ターニャ氏、石井氏と共にカルト被害者救済に尽力してきた弁護士の紀藤正樹氏、そしてzoom出演で、石井氏を財政学者として再評価している経済学者の安冨歩氏が、「今を生きる石井紘基」をテーマに、日本のこれからを泉房穂と語った。
*本稿はイベントの談話を記事用に編集したものです。

石井紘基が今に投げかける「問い」とは?

〈石井さんの訃報を聞いたのは、明石で弁護士をしているときでした。忘れもしない2002年10月25日。旧民主党の衆議院議員・石井紘基は、朝、国会に向かうところを、世田谷の自宅駐車場で、右翼団体代表を名乗る男に刺殺されたのです。

私はテレビのニュースで事件を知り、「えっ、石井さんが!?」とただ驚くばかりでした。すぐに家を出て、東京へ向かいました。

石井さんとは、そのすこし前に電話で話したばかり。突然の死の報せには、驚きしかありませんでした。でも、心のどこかで、石井さんはいつか殺されるかもしれない、そんな予感があったのも事実です。 『わが恩師 石井紘基が見破った官僚国家 日本の闇』より〉

イベントの冒頭、泉氏が音頭を取り、石井紘基氏に献杯。亡き恩師への思いと、今回の著書を出すに至った経緯を語った。

 わが恩師、本当に恩師です。石井さんの存在なくして私は弁護士になっていませんし、国会議員にもなっていない。石井さんの背中を追う形で生きてきた者として、石井さんの享年である61歳、私も今年の8月で同じ61になり、まだまだ石井さんのやりかけたことをやり切れていないという強い思いもあったものですから、あれから22年が経ちましたけど、石井紘基さんが投げかけた「問い」というものは、現在進行形で今の私に刺さっている。そう思っています。

今回の本にも書きましたけど、石井さんは「正義の政治家」と言っていい方だと思います。「困っている人を救う」という被害者救済、そして、「不正はどんな相手でも許さない」という信念で戦っておられた政治家でした。石井さんがやりかけていたことを改めて、今の私たちが、現在進行形で態勢を整えてやるべきであり、その必要性も、今回の本には書いてあります。

具体的な言葉でいうと、「私たちの税金がどこに消えているんだ?」と。「こんなに一生懸命働いて負担もしているのに、どうして私たちの生活は楽にならないのか?」というあたりも含めて、20数年前の過去の問題ではなく、「今の問題」として投げかけたい思いで、私一人で本を出すのではなくて、ぜひ御一緒にと思って、ご家族の、そして石井さんの秘書でもありましたターニャさんの視点や、同志として戦っていた紀藤弁護士。

紀藤弁護士は本当に同志でしたから、石井紘基さんを最もよく知る方であり、石井さんが亡くなってからは、その死の真相究明に取り組んでこられた方でもあります。そして安冨先生は、石井さんが亡くなった後に、石井さんのやってきたことを高く評価していただいている方でありますので、そのあたりの話を今日はぜひお聞きいただきたいと思います。

〈没後22年〉政治家・石井紘基は誰に殺されたのか? 彼が知った「日本がひっくり返るくらい重大なこと」とは?_1
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真実はいつか伝わると信じていた

父親を事件で亡くすという、苛烈な体験をした石井ターニャ氏。表舞台から遠ざかり、長く沈黙を守ってきたが、今回の本の対談では事件前後の状況や、20年来秘めてきた思いを打ち明けている。父の名を冠した本の出版にあたり、どのような思いで、泉氏との対談に応じたのか。

石井 あの日から、今年の10月で22年が経ちます。今日、紀藤先生が持ってきてくださった『石井紘基その遺志を継ぐ』(明石書店、2003年)という本。これは父が亡くなったときに、関係者の文集みたいな形で出されたものですけれども、、この文集を除けば多分、「石井紘基」という名前のついた本は、父亡き後、今回の本が最初です。

そういった本が出るということは本当に……、実は今、母(ナターシャさん)が病を患ってしまいまして、今年の3月頃、もう駄目かなという場面があったんですけれども、そこから今、なんとか持ち直しています。母がまだ元気というか、会話できるうちに、この本も見せてあげれたらということで、いろんな意味で思いが詰まっている本です。

先ほど泉先生が、61歳で、父が亡くなった年になったとおっしゃって、私も、父が政治の世界にチャレンジした頃の年齢になりまして、物の見かたが年齢とともに変わってきたということ。そして今回の本でもいろいろ質問がありましたが、政治との関わりとか、父の残したものをどうやって皆さんに継いでいったらいいのかなとか、いろんな葛藤や悩みがありました。

父が亡くなってすぐの時は、偏向報道というか、事実が正しく伝えられていなくて、人知れず悲しんだり苦しんだりしてきたんですけど、それでも私は信じていたんです。心の中で、「真実は必ず明らかになるんだ」と。父の仕事に誇りを持っていました。

父も生前「死んでから自分の仕事を理解してもらいたい」と言っていたので、父が国民のために心血注いで命をかけた仕事には、必ず光がさすとの信念がありました。それが今、泉先生のたいへんな御活躍の中で、こういった本を出していただいて、実を結ぶ時がきたのだと。

石井ターニャ氏
石井ターニャ氏

1冊の本を頼りに石井さんを信じた

泉房穂が石井紘基と出会ったのは、20代の頃。当時、テレビ朝日の契約スタッフとして、「朝まで生テレビ!」などの制作に参加していた泉は、1冊の本に感動する。タイトルは、『つながればパワー 政治改革への私の直言』(創樹社、1988年)。

1960年代に社会主義国家のソ連に留学し、帰国後に社会民主連合で事務局長を務めていた無名の新人、石井紘基の著書だった。

石井氏の著書
石井氏の著書

 当時は知名度もなかった石井さんが、大きな組織に依拠せず、「市民と市民がつながったらパワーになる、社会を変えられる」という思いで、国会議員立候補を決意して書いた本なんです。

この本を私はたまたま、25歳の時でしたけど、高田馬場の芳林堂書店で、背表紙を見て立ち読みして、感動して、引き込まれる本を買って、知りもしない著者である石井さんに手紙を書いたわけです。

「あなたのような方にこそ、ぜひ政治をやってほしい!」と。この人は本物だと私は思いました。その後、二人で選挙運動をして、私が応援した1990年の衆議院議員総選挙では当選できなかったけれど、次の1993年に石井さんは衆議院議員になり、「官僚国家 日本」の闇に迫る活躍をなさいました。

私は1冊の本を頼りに石井さんを信じ、石井さんの背中を追いかけ、そして「まずは弁護士になりなさい。弱い人の味方になりなさい」といった石井さんの言葉を信じて生きてきました。

その立場から、安冨教授の話もそうですし、紀藤先生の話を聞いていても、「石井さんは本物だったな」と改めて思っていて、ターニャさんのような実の娘ではありませんけど、私も息子のような思いで、石井さんが今評価されていることをうれしく思っています。

石井 父の死後、国会で数多くの法案をつくったのは、泉先生ですから。2003年に衆議院議員に当選なさって、2年間で膨大な法律の原案を一人でつくって。形式上は先輩議員の名前を載せて提出しないといけなかったけれど、私の秘書時代の仲間で、議員となった友人達から、「当時の議員立法は全部泉さんがつくった」と聞いていました。

そして泉先生の最初の国会質問「総合法律支援法案に関する国会質問」は、魂の叫びでした。今回の本にも再録されていますが、本当に鳥肌が立つような、涙が出るようなすごい質問だったと、同期の議員の間でも語り草になっていました。父の魂も残っていると思ったと。

 2002年に石井さんが亡くなられて、翌年に私が遺志を継ぐ形で国会に議席を得て、石井さんのやりかけであった「被害者救済」に着手しました。紀藤さんと一緒にオウム真理教事件の被害者も含めて、犯罪被害者を救うと。

石井さんは、国の不透明なカネの流れを追う不正追及のみならず、そこに被害者がいれば全ての被害者を救い切るという弱者救済に、「それは政治家の責任だ」という思いで取りかかっていた。なので、私は少なくとも「弱者救済」は引き継ぎたいと思って、石井さんの後を継いで、その後、「犯罪被害者基本法」の制定などに、議員立法で関わらせていただいたわけです。

ですから弱者救済については、「石井さんのやりかけていたことを果たしたい」という思いは、ありました。ただ、石井さんのもうひとつの正義であった「国家の不正追及」については、私は研究していなくて……。

石井 泉さんの専攻は教育哲学でジャンルも違います。父は法哲学科の出身で、どちらも哲学というのが根底にあるように思います。

父にとっては、学生運動の時に体をはって学生を守った社会党委員長の江田三郎さんのイメージが大きかった。その時の国民を守る姿が、いつも父の脳裏にあり活動の原動力となっていたのではないかと思います。泉さんと父では、世代の違いや取り組む課題も、それぞれ違うのは良いと思います。

父は、坂本龍馬が好きでした。坂本龍馬がいいかどうかは別として、龍馬のように「自分は太く短く生きるんだ」みたいな決意がどこかにあったのではないかと思います。

父は60年安保の世代で、学生運動のリーダーだったんですよね。デモ隊が国会の門に押し寄せて、国会議員はみんな安全なところに隠れているわけです。そして警察が暴力的にデモ隊を鎮圧しようとする中、ただ一人、老境の江田三郎さんが警官の前に立ちはだかり、ホースの放水を浴びていた。

国会議員という立場にも関わらず、権力側ではなく、学生の側に立っていた。父はその姿を見て、感動したという話なんです。

だから多分、父は江田三郎さんを常に意識していて、「政治家の姿」を貫こうとしていたという気がするんです。

集会で演説をする石井紘基氏
集会で演説をする石井紘基氏

そして、もう一つの原動力は、父が亡くなった後、地元の支援者の方々と会うたびに、「ああ、父はこの方たちの顔をいつも思い浮かべていたから頑張れたんだな」という気持ちが自分の中に湧いてきたんです。だから、きっと父は、自分を支えてくれている人たちを、いつも脳裏に浮かべながら頑張っていたのだと思います。

でも一方で、テレビのドキュメンタリー番組(「『日本病』の正体~政治家 石井紘基の見た風景」フジテレビ、2003年)でも公開されたように、父が友人に宛てた最後の手紙には、「こんな国のために命を懸ける必要があるのか、自問自答している」みたいな葛藤もありました。それは多分、この国の腐敗した仕組みや、権力にぶらさがる勢力のことを言っていたのだと思います。

そんな中で、父は絶対に脅しにも屈しなかった。安冨先生も、「脅しに屈しないというのは、石井紘基の原動力が知的好奇心だったからだ」とおっしゃっていましたが(第2回に掲載)、同時に、江田三郎さんの姿を思い浮かべて、「危険にも恐れず立ち向かう」ようなところが父にはあったのではないかと推察しています。