社会的弱者とは誰か

たとえば、若年性アルツハイマーの当事者であることを公表している丹野智文は、著書『認知症の私から見える社会』の冒頭で、自身が考える「正しさ」を説いている【9】。

〈「正解」か「間違い」かで判断するのではなく、みなさんが関わる認知症の人たちが「幸せと感じているか」を振り返っていただきたい(…)喋れない人の話は、誰かが代弁したら良いし、道具を使えない人には使えるようにサポートしたら良いのです〉【10】

丹野の言い分はよく理解できる。認知症の当事者たちが主体性を発揮し、幸せを感じることができるような手厚い支援体制が整った社会は理想的だろう。だが、それは認知症の者たちだけに限った話なのだろうか。恩蔵と信友のやり取りから浮かび上がる社会変革の要件は、特定の病を患う者ではなく、すべての社会的弱者の包摂を要請するはずだ。

言葉狩り

ねじくれた言い方に見えるかもしれないが、こうした人間観は、根本的には――第5回の本コラムで触れたように――ヘイトスピーチ条例を始めとした「法的な表現規制」の不毛と党派性を示唆するだろう。

外国籍の者や特別永住者に対する憎悪的言説とされる「日本が嫌なら、祖国へ帰れ」は、それを叫ぶ者の感情や思想、その人自身を正確に表してはいないかもしれない。

決まりきった安直なフレーズを咄嗟に使わざるを得ないほど話者の怒りを喚起している、現今の拙速な移民導入や特別永住者をめぐる報道や政策の功罪を問い、議論することをせず、ただ舌足らずな言葉を発した者だけを取り締まるのは、言論の自由を圧殺する振舞いに等しいのではないか。

相反する考えを持つ集団を批判する際、メディアも活動家も、相手方の「上等な言論」に挑むのではなく、手軽に「底」を拾って叩く。SNSの書き込みは、そうしたみっともない戦い方に使うには最適だが、それはもはや議論ではない。流麗な言葉を持たない人々がやむを得ず使う言葉は、決して彼らの真情を代弁しないからである。

たとえば、恩蔵は言う。

〈ある日、母の友人が母を音楽会に誘い出してくれた。帰ってきた母に感想を尋ねると、「ぜんぜん上手じゃなかったわ」と返ってきた。

ところがその二時間後の夕食中、再び音楽会の話題になると「すごく上手だったのよ」と正反対のことを言った(…)こう聞かれれば、こう答えるけれど、ああいう聞かれ方には、ああ答えるということがあるのであって、ひとつの出来事に対して、ひとつの見方しか持ってはいけないなんて、論理を通せなんて、生身の人間を縛るべきではないのかもしれない、と母を見ていて思った〉【11】

憎悪的な言葉は、彼らの憎悪を証しするのではなく、ただ、彼らが置かれている状況に怒っていること、ストレスや悲しみを感じているという事実を示すだけだ。こうした「言葉狩り」は、「怒りの感情を表明すること」それ自体の禁止に直結する。

それでもなお、法的規制を表現の圧殺ではないと捉える者は、結局、自己および自己が属する利益集団の権力獲得にしか関心がないのだろう。

同様に、日本国民を「劣等民族」と呼び、鼻で嗤ったジャーナリストの青木理について、その言葉だけを理由に彼をキャンセルしようと画策する動きも間違っている。出演の自粛に快哉を叫ぶのではなく、そうした発言に至る彼の真意や狙いを論じ、議論することこそがメディアの務めではないのか。