自爆に失敗した少年の告白

自爆したイスマイルの家族の話やヤシーンのインタビューに基づいてハマスについて特集記事を書こうとしていた矢先、9・11米同時多発テロ事件が発生。すべての企画は吹っ飛んでしまったが、9・11も自爆攻撃であったことから、イスラムにおける自爆について、パレスチナの例として記事化した。その後もハマスの〈自爆〉〈殉教〉は私のテーマの一つとなった。

イスマイルの自爆から1年後の2002年6月、自爆テロをしようとして失敗し、自分がけがをした少年の話を聞くことができた。ジダンという名前の18歳のパレスチナ人だ。

イスラエル北部アフラの総合病院の一般病棟にあるベッドで、右手と右足を手錠と鎖でつながれていた。西岸北部のジェニンの出身だが、5月にアフラに近いバス停で自爆しようとして兵士に腹部を撃たれ、負傷した。

そのまま捕らえられ、病院で治療を受けていたのである。その少年がイスラエルテレビのニュースで紹介されたのを見て、イスラエル軍に「取材をさせてくれ」と申請すると、軍からは「少年が承諾すれば、話を聞いてもいい」と言われた。病院で少年に直接インタビューを申し込み、軍の人間が同席する病室でのインタビューとなった。

自爆テロに失敗した少年・ジダン 撮影/川上泰徳
自爆テロに失敗した少年・ジダン 撮影/川上泰徳

ハマスやイスラム聖戦のようなイスラム組織の活動家ではないことは、話を始めてすぐに分かった。「ジダン」という名前を名乗った時に、「フランスのサッカー選手のジダンと同じです」と言って、笑顔を見せた。

ジダンは7人兄弟の次男。父親は電気技師。14歳で学校をやめて職業訓練校に行き、大工仕事を覚えた。イスラエルで働いたこともあるが、2000年9月に第2次インティファーダ(※パレスチナとイスラエルの軍事衝突。多くの犠牲者が出た)が始まって働きに出ることができなくなり、ジェニンの路上で洗濯ばさみを売って暮らしていた。

2002年4月初め、イスラエル軍の大侵攻でジェニン難民キャンプが激戦地となった。イスラエルに近いジェニン難民キャンプが自爆テロの出撃拠点になっていると考えたイスラエル軍は、大軍でキャンプを包囲して8日間の掃討作戦を行った。

ジダンが住んでいたのは難民キャンプではなく、ジェニンの町の方だった。軍が住民に難民キャンプへの立ち入りを初めて認めた時、ジダンは食料や水をキャンプに運ぶ救援グループに参加した。

建物がひしめき、狭い路地が縫うように走る難民キャンプの中心500平方メートルほどが、更地になっていた。イスラエル軍がパレスチナ武装勢力を排除した後、巨大な軍事ブルドーザーで瓦礫を排除したのだ。

「ひどい破壊だった。瓦礫の下から老いた女性の遺体が引き出されるのを見た。黒こげの遺体もあった。僕がキャンプに入ってから2時間後にイスラエル軍が機関銃を撃ち始めたので、恐ろしかった」とジダンは語る。彼は、これがきっかけになって自爆テロによる復讐を考え始めた。「ひどい破壊を見て、心の中に抑え切れない怒りが生まれた。人間らしく生きることができないなら、死ぬしかないと思った」という。

2014年のイスラエルによるガザ攻撃で崩れたビル、写真は2015年8月に撮影したもの。撮影/川上泰徳
2014年のイスラエルによるガザ攻撃で崩れたビル、写真は2015年8月に撮影したもの。撮影/川上泰徳