被害者遺族にとっての「時間」

被害のスティグマやトラウマは時間の経過とともに薄れていくと考えられがちだが、そうではない。時間は事件時で止まったままだったり、スティグマなどは逆に深まっていったりするケースも多いことが、矯正に携わる者にどれだけ周知されているだろうか。

被害者や被害者遺族にとってみれば、時間はそれなりに要するが刑事裁判や民事裁判は、殺された側の状況や気持ちに関係なく、淡々とシステマチックに進んでいくものでしかなく、それを乗り越えていかねばならないことも「二次被害」といえなくもないだろう。

同時に、加害者の罰が決まるまでのプロセスが、折れそうな、狂いそうな心をかろうじて支えているともいえると思う。

が、それはいつか終わりを迎える。するとまた、新たな悲嘆が襲う。ましてや未解決の事件の遺族などは裁判などの区切りもない。

私は未解決事件の遺族にもずいぶん取材をしてきたが、恨む対象がいないことの辛さは、加害者が捕まったケースとはまた異質なものだった。未解決事件はただそこに理不尽な「死」と「悲嘆」が横たわっているだけだ。

写真はイメージです
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謝罪の手紙をどう送ればいいのか?

受刑者が歳を重ねれば、事件についても風化していくし、加害者としての記憶もかすんでいくものなのだろうと思う。犯した罪について常日頃から思いなおすようなプログラムは実施されていないし、加害者は時間とともに被害者の顔まで忘れていく。

凶悪事件の場合、長い時間、あるいは永遠に互いは隔絶される。それを望む被害者遺族もいるが、加害者は被害者や被害者遺族の存在を忘れるべきではない、と私は思う─そう水原にも書き送ったことがある。

懲役刑はあくまで国家からの罰であって、被害者を慰める一つの要素でしかない。慰めにもならないどころか、司法への不信を深めるケースも多々ある。被害者や被害者遺族の思いが法廷で通じるのはごくわずかなケースだけで、現実的に、「罰」と被害者の願望のバランスは取ることができていないのが私の実感だ。

被害者や被害者遺族が望んだ場合、加害者とつなぐ役割の不在を、私は常に感じる。弁護士がつくのは裁判の期間だけがほとんどだし、加害者の出所後も、保護観察官や保護司も両者の間を積極的にファシリテートしてきたとは言いがたい。

受刑中も同じで─あくまで被害者遺族が望めば─それぞれの状況や気持ちなどを伝える、被害者遺族の立場に寄り添った役職はなかった。

もしあれば、それは受刑者の更生のためにもなる可能性もあるかもしれないし、加害者の受刑状況や様子、何よりも犯した事件と奪った命について反芻しているのかを知りたい被害者遺族にとってその現実は辛いことだろうと思う。

「修復的司法」といって、被害者の希望があれば、社会復帰した後の加害者を向き合わせる取り組みも、弁護士などの一部にはある。私は何度もケースを取材させてもらった。

たまたまと思いたいが、同じ部屋に加害者と遺族だけを残し、弁護士数人は協議のために別室に移動してしまった現場に私は居合わせたこともあり、その無神経さに驚いたことがある。修復的司法は原則的に、殺人や傷害致死、強姦などの人身に関する「修復不可能」な凶悪犯罪には成立し得ないという立場を私は取る。