堀米が日本のスケートボード界にもたらしたもの
大会前日、堀米の地元である東京・江東区の協力のもと開設した「夢の島スケートボードパーク」で滑っていた埼玉県在住の鈴木秀幸さん(43)は長年スケートボードに携わってきた中で、東京五輪以降にスケートボードが得た確かな市民権を感じているという。
「堀米くんが東京オリンピックでメダルをとったことで、以前よりスケボーの世間体もよくなりましたし、ちょっとコンビニにスケボーで行ったりしてもまわりからの見られ方が変わったと感じます。9割5分くらいはオリンピックや彼の活躍のおかげじゃないですかね。僕は彼とはやりたいスケートスタイルが違うし、テレビで観戦したりはしませんが、それでも応援してます」
実際、東京五輪が行われた2021年までは国内で243か所だった「スケートボードパーク」は2024年には475か所と3年間で約2倍に急増したことからも、少しずつ行政や市民からの理解を得られていることがわかる。
また、パーク内のハーフパイプで難易度の高い技を披露していた東京都在住の島袋琉哉くん(9)は東京五輪以降にスケートボードを始めたという。
「いちばん好きなのは堀米選手。技とかすごいし、オリンピックで表彰台に立ったときがかっこよかった。ぼくもいつか堀米選手みたいにオリンピックに出たいです」
堀米にあこがれて、いつかは大会で活躍を誓う琉哉くんは現在、ほぼ毎日パークに来て3〜5時間練習に励んでいる。付き添いで来ていた両親は口をそろえていう。
「昨日は堀米選手もお参りしている亀戸の香取神社に『金メダルを獲れますように』とお参りに行きました。五輪競技になったおかげで昔よりスケボーの置かれる環境や世間のイメージもよくなっているし、何より息子が夢中になれることを見つけてくれてよかったと思っています」
堀米自身も6歳のときにスケートボードを始めたが、最初から上手なスケーターだったわけではなかったと、自著『いままでとこれから』で明かしている。
〈小学1年生のときに舞浜にスケートパークができて、お父さんが滑りたいからよく一緒に行くようになった。そのパークにはプロのスケーターがいて、たくさんの子どももいたけど、子どものなかでも僕は一番下手くそだったらしい〉
オリンピック連覇の偉業を成し遂げるまでの道のりは平坦ではなかった。何度も転んで怪我をして、冬の冷たい地面に顔をぶつけて打ちひしがれることもあったという。多くの挫折を乗り越えて堀米が私たちに見せてくれたものは「奇跡の逆転劇」や「栄光のメダル」だけではない。
社会において必ずしも好意的に受け入れられていなかったスケートボードの社会的認知をアップさせ、多くの子どもたちに夢を与えた。堀米の背中を追いかけて今日もスケートボードに打ち込む子どもたちがいる。
新しい道を切り拓いたその功績は計り知れない。
取材・文・撮影/集英社オンライン編集部