世間からバッシングを受け、姿を消した丸山明宏
シャンソン歌手である美輪明宏(当時は丸山明宏)は、1957年にデビュー・シングル『メケ・メケ』をヒットさせてスターになった。さらに作家の三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛したこともあって、一躍マスコミの寵児となった。
だが、同性愛者であることを隠さなかったために、まだ理解の薄かった世間からバッシングを受け、その後はマスコミからも締め出されて、一旦は忘れられた状態になってしまう。
しかし、ここからが本当の始まりだった。
1963年秋、東京・大手町のサンケイホールで開催された、全曲自作自演で構成した『丸山明宏リサイタル』で見事にカムバックを飾ると、1965年には『ヨイトマケの唄』をヒットさせて完全復活したのだ。
実は『ヨイトマケの唄』を作った当時は、すぐに人前で歌うことはなかったという。
しばらく経って、自宅で開いたささやかな誕生日パーティーの場で、初めて弾き語りした。すると、集まっていた親しい友人たちは口々にこう言った。
「どうして今まで歌わなかったの? こんないい歌もっといろんな所で歌って、大勢の人達に聴かせてあげなきゃ駄目じゃないの!」
言われた通りにシャンソン喫茶で披露した。冒頭の田舎っぽい掛け声に、観客はコミックソングと思って笑い出した。
ところが歌い進めるうちに、人々の表情は変わっていき、最後にもう一度、冒頭と同じ掛け声をくり返した時には、笑いとは反対に涙に変わっていた。
その後、丸山明宏は、寺山修司が手がけたアングラ芝居『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に出演するなど、歳月をかけて表現の領域を広げながら成長していった。
そして1968年4月からは三島由紀夫のたっての願いで、渋谷・東横劇場の『黒蜥蜴』に女形として主演することになった。
大ホールの1か月公演ともなれば、たくさんのスタッフが関わるので準備期間は長くなる。しばらくの間、活動の主軸を音楽から演劇に移さなければならないと考えたのは、表現者としての自分を追求して磨き上げていく機会だと、冷静に判断したからだ。
そこで歌手として区切りをつけるために、1968年2月に『第八回 丸山明宏リサイタル』を開催した。