岩手から母と二人で世界へ…パラ陸上小野寺萌恵 。YouTubeが14歳に見せた「夢」を叶えるとき_1
すべての画像を見る

YouTubeが運んできた世界への夢

4歳で急性脳炎を発症。後遺症で両脚を思うように動かせなくなり、両腕にも麻痺が残った少女に、夢は突然やってきた。「中学2年生でした。14歳になるちょっと前」。2017年、ロンドンで開催されたパラ陸上世界選手権の車いすレースをYouTubeで偶然見たという。「この人なんでこんなに速いの! めっちゃ速い!」 心を奪われた。

その少し前に、岩手県の障害者スポーツ大会で車いすレースを体験していた。「春に2、3回練習会があってすぐ大会で、大丈夫かなと思ったんだけど、けっこうまっすぐ走れて、『これはいけるでしょう』という感覚はありましたね(笑)」。

YouTubeを何度も何度も見たのは、この経験の後だった。「自分と同じ障害のレベルの人がなんでこんなに強いんだろう。『自分も本気でやりたい!』そう思ったときの自分をよく覚えています」。

それまで水泳はしていたが、リハビリのためで競技として取り組んでいたわけではない。母・尚子さんは、娘の県大会の車いすレースでの活躍に驚きはしたものの「途中でやめちゃうんじゃないの。水泳と違ってお金もかかるよ」と反対だったという。

しかし「水泳ではチャンピオンになれなくても、レースならチャンピオンになれる。私、世界に行くから!」と説得。小野寺萌恵の夢が決まった。だが「まだあのとき、本当は世界までは考えてませんでしたけどね」と笑う。

厳しい競技環境の中で道を拓いた

だが道のりは平坦ではなかった。「ちゃんと指導してくれる人がいませんでした。体育の先生にヘルメットとグローブはあった方がいいと言われて、グローブは買ったんですけど」県には車いすレースのチームもなかった。

また、中学3年生の春からは体調を崩し、なかなか本格的な練習に取り組めなかった。

「でもやっぱり私、風を切って走るのが好きなんです。風が来るともっと向かいたくなるんです」生来の負けず嫌いもあって、いくつかの大会に出場した。しかし成績はふるわず、冬、雪が降ると練習もままならない。

試行錯誤で娘をサポートする母は「室内練習用のローラーは買わなきゃ」と、中3の終わりにローラーを購入した。

高校生になり、体調も快復。「ローラーもいいんですけど、陸上競技場の絵がついてたらいいのにって思います。スタートの線とかあると、モチベーションが上がるんですよ」自分の中のイメージを体現することが大切な芸術肌スプリンターだ。

いよいよトラックでの練習も再開し、ヘルメットも購入した。だが地元の陸上競技場は土トラックで、車いすレーサーの使用は許可できないという。「30キロ離れた他の市まで通いました」ハードルだらけの道を手探りで進んだ。

それまで練習の度にレーサーを借りていたが、「ありがたいことに、県のサポートで初めて自分専用の車いすレーサーが手に入りました」様々な動画を見て研究もした。

「この1位の人、タイヤを回しっぱなしなのかな、それとも一旦手を離しているのかな、とか見て、自分でもいろいろ試しました。時速のメーターがどんどん上がっていくいくときって、すんごい楽しい。26(km/h)まで上がっても、これでは勝てない、もっと! もっと!って」。