「戦争は美しい」と語ってしまうワケ
戦争に「娯楽」的な価値を見いだそうとする思想や言説は大きく分けて2つの嗜好があると考えられる。戦争を審美的に愛するものと、物語として惹かれるものと。
ざっくり言えば「戦争ってカッコいい」と「戦争って泣ける」だ。両者はくっきりと分けられるものでもなく、どちらの傾向にしても、それを体験する人間の知性と感性が媒介することになる。
美学者ウィルヘルム・ヴォリンガーが芸術作品の美的価値を分類する際に用いた言葉を強いてあてはめると、前者は「抽象」の美、後者は「感情移入」の美となろうか。
ここでは「戦争は美しい」ということを古今未曾有のしつこさで訴え続けた困ったちゃんの活躍を、反面教師として見学しておこう。
20世紀初頭。
電灯、電話、レコード、映画、そして飛行機。みんなすでに発明されている。政治思想では社会主義者の国境を超えた組織であるインターナショナルがもうとっくに活躍を始めている。
そして、これらの新技術にしろ新思想にしろ、まだまだ身の振り方が――歴史的な評価が――定まっていない。だからこそおもしろい。そんな時代だ。
1909年2月20日、フランスのフィガロ紙に「Le Futurisme(未来派)」と題する記事が2段に渡って掲載された。寄稿者の名はフィリッポ・トマーゾ・マリネッティ(1876~1944)。エジプト生まれのイタリア人詩人だが、自身の詩誌を中心にフランス語の詩作活動を続けていた。
「ぼくたちはモスクランプの明かりのもとで夜通し起きていた――ランプの真鍮の笠はぼくらの精神同様に明るい、なぜならともに電気の心臓の内なる成長を蔵しているから」と書き出される散文詩調のエッセイに続いて、「未来派宣言」の条文が並ぶ。
一、われわれは危険への愛情、活力と蛮勇の営みを歌わんと欲する。
二、勇気、大胆さ、革命こそわれわれの詩に不可欠な要素である。
三、従来文学は思惟に富んだ不動、恍惚、そしてまどろみを尊重してきた。われわれはこれに対して、攻撃、熱にうかされた不眠、駆け足行進、決死の跳躍、平手や拳の一撃を称賛せんと欲する。
四、われわれは世界に新たな美が一つ加わったことを宣言する。すなわち速度の美だ。爆発性の息吹を吐き散らす蛇のごとき巨大な管をボンネットにさらしたレーシング・カー、機関銃の斉射のごとくうなりをあげて疾駆する自動車は、サモトラケの勝利の女神よりも美しい。
ここまででもすでに暴力的な好みが見てとれるだろう。また、昔ながらのジェンダー観で言うなら、どうにも「男の子っぽい」好み。