キャスター降板後、即、中国留学
また、キャスターという仕事へのやりがいについて、自身の連載「蓮舫ハ北京大学留学中」でこのように語っている。
「当時私は、キャスターとして夕方のニュース番組を担当していました。何かあれば昼夜を問わず現場へ。常に緊張をしいられる毎日ですが、忙しければ忙しいほどやりがいを感じ、経験を積むほどに仕事中毒になっていく、魅力ある仕事です」(『COSMOPOLITAN 日本版』1996年5月号より)
ところがその後、自ら『ステーションEYE』の降板を申し出て、中国の北京大学の留学を決意。その経緯について同連載でこう説明している。
「じつは報道番組の降板の許可をもらってないこの時点で、私は北京大学に入学申請書を出してしまっていたのです。ただこの“フライング”が、逆に“気迫”として伝わったのか、9月で番組を卒業することを、局は快く許してくださいました」(『COSMOPOLITAN 日本版』1996年5月号より)
そして『ステーションEYE』を1995年9月に降板すると、「ちょっと旅行に行く」感覚で10月10日には北京国際空港に降り立っている。休む間もないせわしなさだ。
授業は当然、すべて中国語で行なわれるが、この時点で彼女は中国語がほとんど話せない。そのため、全寮制の部屋にこもり中国語を勉強する日々で、当初は街に出る余裕もなかったそうだ。
そして2ヶ月後、大学近くの路上マーケットで店員に笑顔で話しかけられ、その言葉が理解できたときの感動をこう語っている。
「言葉を使うニュース・キャスターという仕事をしていた私のプライドは、私に中国語を“頭”で理解させようとしていたんですね。“言葉”はあくまでコミュニケーションの“道具”。それよりも大事なのは、何よりも“心”なんだ……」(『COSMOPOLITAN 日本版』1996年5月号より)