カルトとしてはじまっても次第に失われる「カルト性」
フランスでさえ、セクトを定義できなかった。しかも、反セクト法は、いったんは成立したものの、それによってセクトに対して強い規制がかけられたわけではない。その後、フランス国内には旧植民地のイスラム教圏からの移民が増え、セクトよりもイスラム教に強い関心がむけられるようになった。
フランスにおいてさえ、反セクト法(カルト規制法)は、十分に機能しなかった。それも、セクト(カルト)を定義することが難しく、特定の集団をセクトに指定して、規制することができないからである。
ここで重要な点は、カルトとしてはじまった宗教は、歴史を経るに従って変貌をとげ、社会に定着することによって周囲と軋轢を生まない方向に転換していくことである。つまり、宗教はカルトとしての性格、「カルト性」を失っていくことが多いのである。
キリスト教は、当初は世の終わりがすぐにでも訪れることを強く説いていたが、原罪の教義を確立し、教会に贖罪の機能があることを打ち出すようになることで、終末論的な傾向は薄れていった。
イスラム教でも、多神教徒との軋轢が大きかったメッカの時代には、神の啓示は終末論的な色彩が濃かったが、メディナに移った後は、信者の日々の生活を律する事柄を説くようになり、やがてそれはイスラム法の確立に結びついた。
日本の新宗教についても同様の経緯をたどった事例をあげることができる。
戦前にもっとも勢力を拡大した天理教は、初期の段階では、「ビシヤツと医者止めて、神さん一条や」と、病気になった際に医者にかかることを真っ向から否定し、信仰によって病を治すことを強く説いていた。病はその人間に対する神からの問題点の指摘だというのだ。
天理教ではまた、教祖は貧しい人々の境遇を自ら体験するために、身の回りのものをすべて周囲に与えてしまったという伝承があることから、「貧に落ちきれ」というスローガンが打ち出され、信者に対して財産をすべて教団に寄進するよう求めた。
実際、そうした行為に及び、それでも布教活動に邁進した信者たちがいた。作家の芹沢光治良の両親も財産をすべて寄進して布教に邁進したため、芹沢は幼少期に塗炭の苦しみを味わったと後年述べていた。現在言われる「宗教二世」に通じる話である。
しかし天理教は、1935年に「天理よろづ相談所」という医療機関を設置し、1937年には私立病院としての認可を受けている。「ビシヤツと医者止めて」ではなくなったのだ。この病院はその後発展を続け、今では総合病院として高い評価を得るまでになっている。
教団の姿勢は大きく変わった。「貧に落ちきれ」などと献金を強要することもなくなり、天理教の布教活動は社会的に問題視されなくなった。天理教は、しだいにカルト性を薄めていったと見ることができる。教団の規模が拡大すれば、社会の常識的な価値観と強く対立するわけにはいかなくなるのである。
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