「南井克巳を降ろすのであれば、手綱を任せられるのは武豊しかいない」

天皇賞(春)で2着に敗れたあと、大久保正陽が南井克巳の騎乗に対して激怒しているという話がどこからともなく流れてきた。

調教師は南井を降ろしたがっているという噂も運ばれてきた。

南井克巳で臨むことになっていた既定路線の宝塚記念で武豊への乗り替わりを選択すれば、南井を降板させたことが明白となる。そう思わせないための奇手が高松宮杯への出走だった。

南井にエイシンミズリーに騎乗するという先約があれば、武豊への騎乗依頼も「お礼返し」で通る。南井の名誉を傷つけることもなく、武豊はもちろんのこと大久保自身も悪者にならず円満に降板、乗り替わりが実現する──と。

ナリタブライアン「高松宮杯」出走は、なぜ武豊が騎乗した? 三冠馬達成30年目の真実…降ろされた主戦騎手・南井克巳は「僕が負けたのが原因です」_3

大久保正陽は当時から武豊に絶大な信頼を寄せていた。1993年春に大久保を取材した際、23歳の武豊を「彼はベテランだから何も言う必要はない」と話していた。

武豊は当時、その年の桜花賞でベガに騎乗して早くも12個目となるJRAのGⅠタイトルを獲得していたものの、プロになってまだ7年目。若き天才騎手に、57歳の調教師が「ベテラン」と呼んだことに僕は驚いていた。その直後、武豊は大久保の管理馬であるナリタタイシンを駆って皐月賞を制したことで、なるほどと納得したものだ。

「南井克巳を降ろすのであれば、手綱を任せられるのは武豊しかいない」

そんな大久保の思いが、30年近くの時を経て初めて理解できたような気がする。

とはいえ、たった一度の失敗で、それまでナリタブライアンと固い絆で結ばれてきた南井を主戦から降ろすのはいかがなものか。もしかすると大久保は南井について、大怪我をするまえのような騎乗はもう望めないと見切りをつけたのかもしれない。

ただ、そうであったとしても、オグリキャップの時に調教師の瀬戸口勉がしたように、名誉挽回の機会を与えてもよかったのではないだろうか。

「替わるんだったら、この辺で替わっとけばよかったんだよ」

南井克巳氏の近影。写真/鈴木学(サンケイスポーツ)
南井克巳氏の近影。写真/鈴木学(サンケイスポーツ)
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「僕が(天皇賞で)負けたのが悪い」

2023年秋のロングインタビューの際、南井克巳さんはそう言って、自身が復帰するまえのレースを指さした。阪神大賞典まで3戦続けてナリタブライアンの手綱を取った武豊がその後も乗り続けるべきだったと言うように──。

「ここまで来て、ここで替わることもないと思うんだけど」

──そうですよね

「馬(ナリタブライアン)に対してもね、やっぱりここでこんなとこを使ってね。まあ、ファンは楽しみにしていたかわからないけど。でもね。それ(出走するレースの選択)はもう先生の考えだし、オーナーの考えだし。私にはわからないけど。本当に昔からよく知っている方ですし、世話になったし、僕もよく乗せてもらったけど。でも、これだけはちょっと……。やっぱり、そこまでする必要があったのかな、と。僕が(天皇賞で)負けたのが悪いんだけどね」

──そうですか

「うん、それが(ナリタブライアンが高松宮杯に出走した)原因だと思います。僕が負けたのが原因でそうなったから、馬のために申し訳ない。だけど、やっぱり可哀想だよね。こんな強い馬をこういうとこ(高松宮杯)に使ったらね」

──そうですよね

「うん。可哀想だわ、やっぱり」

──結局はそれで……

「うん、終わったでしょ」

──終わっちゃいましたからね

「終わった。可哀想だわ」

ふたりきりの調教スタンドは暫し沈黙が支配した。


文/鈴木学

『史上最強の三冠馬ナリタブライアン』(ワニブックス)
鈴木 学
『史上最強の三冠馬ナリタブライアン』(ワニブックス)
2024/5/26
2,500円(税込)
400ページ
ISBN: 978-4847074448

衝撃の三冠達成から30年――
今でも根強い「最強の三冠馬説」と
謎に包まれた高松宮杯出走まで
〝シャドーロールの怪物〟の真実に迫る!
伝説のジョッキーたちによって
いま初めて明かされる栄光と挫折の舞台裏。

「やっぱりもう少し長く生きてほしかった。それが一番ですね」(南井克巳)
「(ルドルフと)一緒にやって(対戦して)みたかった、という思いが強かった馬だよね」(岡部幸雄)
「負けた側としても非常に嬉しいですよ。後世まで語り継がれるというのは」(田原成貴)
「見てて史上最強馬だと思っていました。好きな馬でしたね」(武豊)

「栄光のあとに降って湧いてきた不運や不幸は、ナリタブライアンのあずかり知らぬ力によって生まれた『闇』に翻弄されたものといえるかもしれない。
その闇のひとつが『人間』であるのは明白だ。2024年はナリタブライアンの三冠達成30周年という節目の年。個人的なことをいえば、私は同年に還暦を迎える。その節目の年に、現場で最も取材した競走馬の一頭であるナリタブライアンの足跡を辿ってみたいと強く思うようになった。その思いを伝えて実現したのが、この日の南井克巳さんへの長時間にわたるインタビュー取材だった」(著者より) 

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