「この世のすべては無常」
日本人の死生観のベースに
―― そういったなかで、昔の日本人の死生観は今とは違いましたか。本書では、仏教的な無常観を述べた「いろは歌」を基に解説されています。「いろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならむ うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせす」。
日本人の死生観のベースにあると思える考え方です。「あんなに色鮮やかに咲いていた花も散ってしまった。世のすべては無常、それがこの世の定めなのだ」ということでしょう。これはお経の翻訳で、日本人がごく自然にそう思えるというものではないでしょうが、でもあれが流布してみんなが「そうなんだな」と思ったことで、死生観はえらく変わった。平安後期にあんな歌が作られたのは驚きです。
昔は長寿だった人の死に際しても、いろは歌を書いたりしているんですが、「色は匂へど 散りぬるを」ですから、若死にが意識されていると思います。当時、若い方の死が本当に多かったのでしょう。
―― 後半に「有為の奥山けふ越えて 浅き夢見じ酔ひもせず」とあるのは、今でいうと天国じゃないんですけれど、違う世界に魂が行ってしまうと?
ええ。前半とは視点が反転して、その主体は死に行く本人なのです。人生全体が「夢」として思い返されるということは、死が「目覚め」かもしれないという認識です。覚めたから、もう夢は「見るまい」ということ。苦しんでいるのは見送っている側だという視点がありますから、みんな黒い服を着ているけど「私なんかもう自由よ」といったところです。
―― 先生は僧侶のお仕事も日常なのですが、人間は死んだらすべてがなくなるのではなくて、どこかに魂が残っているというふうにお考えですか。もし魂というものがあるとしたなら、その魂も何らかの循環というか、また何らかの形に。
昔からの考え方では、結局、三十三年で本然忌といって、もともとのほどけた状態に戻るわけです。五十回忌で神になる。だから亡くなってしばらくは、仏になる、ほどけるまでの過程ですよね。
ほどけ切ったら、和魂になるというか、祖霊神になるわけです。そしてまた産土の神になって、子どもになって生まれてきたり、歳徳神になって年始に下りてきたり、農業を守りに来たりというような、循環の思想がそこには感じられます。
―― では、体の循環と同じように魂もきっと循環していると。それで、その魂がつながっているような状態というか、「むすんでひらいて」のタイトルにもつながってくるのでしょうが、心と心、魂と魂がお互いに縁を持ち合う、というのはどういうことなのかなと?
何て言うか、下手な目的を持たなければ否応なく無数の縁と関わるんです。ところがわれわれは、目標というのを常に持とうとする。すると、その目標に向かう最短距離以外は全部切り捨てられます。無限の網の目が無駄になる。そういうことじゃないですかね。
―― 仏教では人の命を奪う殺生がいかにおぞましいかを説いています。
お釈迦さまの「命を大切に」という徹底ぶりってすごいですから。一人っ子のわが子をかわいがるように、ゴキブリもハエも慈しまなきゃいけない。
西洋の神の話に戻すと、アダムとイブが食べた「知恵の木の実」は「善悪の知識の実」と訳す本もあるのですが、命の木と善悪の木の実を神だけが食べていた。それをアダムとイブが黙って食べたので許せなかった。だから善悪の虜なわけですね、神は。
そして神は、アダムとイブを創ったことを後悔する。カインによるアベル殺害のこともあったのでしょう。そこで大洪水を起こして、ノアだけを生き残らせようなんて変な話になるんですけどね。
―― 先生の西洋宗教批判、結構過激です。でもその点、日本の神々はおおらかですね。
私は過激ですよ。だって、カインのアベル殺しってやっぱりひどいですよ。
―― この本のなかで、「神は結ぶもの 仏はほどけるもの」って仰ってるんですが、「むすんでひらいて」というタイトルをお付けになった理由を伺ってよろしいですか。
歌は「結んで開く」と始まりますが、これは神と仏です。神はカミムスビの神やタカミムスビの神を持ち出すまでもなく「結ぶ」ものです。現れること自体を「結ぶ」というわけです。どうすれば現れるかというと、手を拍つんですね。
人間はさまざまな思いを言葉で結びますが、きつく結びすぎて自縄自縛になるのが常です。そんなときのために、今度は「ほどける」仏の登場になります。仏は解脱した存在ですから、私たちにも「ほどけよ」と促します。
私はこの歌を思うと、さまざまな人生の問題って、そんなに簡単に解決できるものじゃなくて、何度も結んだり開いたりしながら向き合っていくものだと思えてくるんですよ。何にでも「一つの正解」があるという今の若い人たちの考えに一石を投じたいというのはありますね。人生はひたすら目的に向かって進み続けるのではなく、結んだり開いたりして、付き合っていくしかない相手でしょう。
――「開く」というのは具体的にいうと?
このためにはこういう方法しかないと思い込んでいたのに、そうでもなかったり、あるいは、こういうふうに進んでいくためにはこんなステップを踏まなきゃいけないはずだという、それも思い込みですが、要は無数の思い込みから解放されることですね。
―― 何かに集中し過ぎてしまうと、ちょっと離れて自分を見るということが難しいというか。思い詰めてしまいがちですよね。大事なことは、一度ほどいて、大事なものを選びなおすということでしょうか?
そうでしょうね、そのとき、そのときで……。もちろん根本的には、あらゆる思い込みから解放してくれるのは「瞑想」ですが。
「華厳の教え」だと
この世のすべてが対等のいのち
―― 先生は本書に「今、求められる仏教の智慧」という副題を付けていらっしゃるのですが、仏教に何を学んでほしいですか。
お釈迦さまが一番嫌うのが「単因論」ですが、こういう状況になったのはこのせいだと、原因を一つに絞り込んでいくことです。それで助かることもあるにはありますが、実際はあらゆる現象は無数の原因の結果です。
結局みんな、「個」があると信じて、「個」というもので悩んでいるわけですが、これは常に関係性のなかで流動するものです。「仮和合」と仏教では言うんですけど、仮に和合したものとしての存在しかありませんから、個の問題としては解決しないんです。諸法無我とも言いますが、だから、全体を緩めてやる、そしてもう一回結んでみる。そこに仏教的な智慧の活かしどころがあると思うんです。
西洋哲学において個というのは欠かせないものになってしまいましたが、東洋哲学では世界の根源を個を超えた「渾沌」(カオス)とみるわけです。
―― 渾沌という概念は西洋にはないと言われています。渾沌を良しとする東洋的な考え方を大切にしたいということでしょうか?
「渾沌」は産みだす力です。西洋の「混沌」は混じっちゃって取り出せないという、無秩序状態ですよね。でも、東洋の「渾沌」はすべてを産みだす母体ですよ。日本神話でも命を産みだす運動の源です。
―― そこで教えていただきたいのですが、「渾沌」は宇宙がビッグバンで生起した極初期の状態や地球の海に命が芽生えた状態を想起させます。つまり、無から有が生まれたということでしょうか?
そこに「縁」が加われば、生起するわけですが、「渾沌」はそうして縁によって姿形を取って来る前の状態ですね。だから、何にでもなれる状態というのかな、iPS細胞のようなものですかね。
私は「気」が通じ合うのも、元々一つの受精卵から分かれた細胞同士だからじゃないかと思うんです。また「量子もつれ」(宇宙物理学用語)は宇宙の端と端であっても起こるだろうと言われていますが、これもビッグバン以前は一つだったからじゃないですか。元は一つだったから、今もつながっているものがあるんじゃないか、そんな気がしてならないですね。
―― 最後に、世界と日本の諸問題の処方箋になりうると先生がみておいでの「華厳の教え」について教えてください。
西洋的な「個性」とか「個人」とかは神と向き合うなかで出来上がってきたものです。しかし、「華厳」的な見方からすると、個人というものは初めから単独では存在しない。「みんな」と一体。ですから私だけが幸せということはありえないんです。八百万の神に喩えるとわかりやすいかと思います。岩があって様々な樹木が生え、そこに川が流れて魚が泳ぎ、鳥も飛んで、全体としてこの世をつくっている。いわゆる生態系ですね。華厳の教えだとすべてが対等の命。みんなが「もちまえ(性)」を発揮しながら「布施」しあっているんです。
―― つまり、生き物すべてが仏性が宿る対等の存在とする「華厳の世界」では、他者の命を奪うような覇権主義はもってのほかだということですね。現実に戦争が拡大している今の状況にこそ、この華厳思想が広まってほしいですね。
ええ。本当にそう思います。