イビツァ・オシム通り

オシムの没後、ボスニア代表は苦戦を続けている。欧州選手権予選グループJにおいてはスロバキア、ルクセンブルグといった格下相手に苦杯を舐め、現在は5位(12月30日時点)。ルクセンブルグに1対4で惨敗したときは、サポーターたちは、発煙筒を投げ込んで怒りをあらわにした。プレーオフでのウクライナとの一戦を控えているなか、スポーツ記者は言った。

「ロシアに侵攻されて苦境にあるウクライナへのリスペクトは忘れてはならないが、それと勝負とは別だ。戦争中でホームのキーウで試合ができず、隣国ポーランドの地で戦う相手に負ければ、それこそ、大恥だ。けれど今のチーム状態では、勝てそうにない。こんなときにシュワーボがいてくれればと思うのだ」

協会を辞して、トラムに揺られて15分。ジェレズニチャルのスタジアムに顔を出したら、ショップにジェフ千葉のオシム追悼マフラーが飾ってあった。

ジェフ千葉のオシム追悼マフラーを掲げる店員
ジェフ千葉のオシム追悼マフラーを掲げる店員
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「日本からのお客さんが持って来てくれたのよ」と店員のナタシャが誇らしげに言う。

ジェフのレプリカユニフォームには、鮮烈な思い出がある。オシムの幼馴染にネジャド・ベカノビッチ、通称ジミーというロマの少年がいた。多民族国家、旧ユーゴスラビアにおいても民族としてカウントされず、最も被差別の立場にあったロマをオシムは、何の偏見も無く受け入れて親友となっていた。

ジミーが長じてビジネスで成功してカフェ、その名も「ジミー・トレード」をオープンさせると、オシムを慕ってずっとジェフのユニフォームを着衣して働いていた。かいがいしく客から注文を取り、トルココーヒーやラキヤをサーブするのだが、いつも身にまとうのは、エプロンではなく黄色い背番号6だった。

「そのジミーももう逝ってしまった。今ごろは空の上でシュワーボと再会しているかもしれないわね」

ナタシャはまだ若いけれど、語り継がれるクラブの歴史をほとんど頭の中に入れている。

「だって、シュワーボがサラエボを離れてグラーツに行ってから私は生まれたのよ。それでも彼のことは、ずっとこの町で聞かされてきたのだから」

ジェーリョ(=ジェレズニチャル)のサポーターが集うレストランマキアートのドアを押す。常連客たちは、煙草をくゆらせながら、口々に「オシムロス」を口にする。

「日本人よ、知っているか? この前の大通り、そう、スタジアムとこの店に挟まれた大通りの名前が、IVICE OSIMA BULE VAR (=イビツァ・オシム通り)と命名されたんだぞ」

ジェレズニチャルのスタジアム前の大通りが「イビツァ・オシム通り」になっていた
ジェレズニチャルのスタジアム前の大通りが「イビツァ・オシム通り」になっていた

ついに地名になったのか。「最初は俺たちがはたらきかけたんだが、異論なんかあるはずがねえ。(ダービーで戦う)FKサラエヴォの連中も賛同したし、市長もそうだ」

オシム氏はサラエボの集団墓地で孤高を保つように眠っていた―政治、民族、宗教を超えた存在だった彼は、紛争の続く今の世界になにを思うか_8

サラエボが包囲されたとき、暗殺の危険さえある中で、故郷を攻撃する国の代表監督はできないと宣言し、辞任することで、ボスニア紛争への抗議を示したオシムは、未来永劫、町のレガシーとなったのだ。

あらために外に出て、イビツァ・オシム通りの中央に歩を進めた。行き交うクルマの波を見ながら、ふと、オシムが名前を使われることをかたくなに拒んでいた案件があったことを思い出した。