普通自動車免許は「大人のライセンス」なのか?

「おまえ、まだ車の免許とってへんの?」

主人公のノブヒコが久しぶりに実家に帰省する話を描いていたら、僕が30代のころに地元の友人に言われた言葉を思い出した。

「東京に住んでいれば車がなくても困らないし、フリーランスだと周りにもけっこう自動車免許を持っていない人がいて、それほど不自然でもないのだ」と答えた僕に、友人はさらに続けた。

「こっちじゃエエ歳して車の免許も持ってないとおかしな奴やと思われるで。免許って大人のライセンスみたいなモンやから」

高校3年生の終わりごろ、あれだけ「勉強が嫌だ。学校が嫌いだ」と言っていた級友たちが、競い合うように自動車学校に通い出したときは心の底から驚いた。マラソン大会でゆっくり走ろうと約束しあったグループが急に全力疾走を始め、僕ひとり取り残された気分だった。

両親も「自動車学校代を出してやるから」と勧めてくれたが断った。生まれてこのかた自動車にも運転にも興味を持ったことがなかったし、現在自分が必要だと思えないものに、お金と時間とさえない頭を使う理由がわからなかった。

「大人のライセンス」なるものはどうやら本当に存在するらしい。ようやくそのことがわかってきたのは40代に差しかかったころだ。それはどうやら、興味があるとかないとか、現在の自分に必要かどうか?などいちいち考える類のものではなかったようだ。

世間の大多数の大人が持っているものは、必要に決まっている。なぜなら世間は大多数の大人で構成され、大多数の大人にとって快適な仕組みで動いているからだ。
僕の地元は車の運転ができないと、日々の買い物にも不自由する仕組みだ。自ら快適な仕組みから外れ、不自由を選ぶ人間は、おかしな奴だと思われても仕方がないのかもしれない。

級友たちもわかっていたのだ。その場から動かず考え込んでいる間にも時間は過ぎてゆき、いつかは社会に出なければいけないときがやってくると。ならば大多数の大人が持っているライセンスは、残された時間が多いうちに取得しておいたほうが効率的なのだと。

それは自動車免許に始まり、やがて税金や保険や投資などのお金の知識、コミュニケーションのスキル、結婚し家庭を持つこと、住宅ローンを組むことなどになり、それらを取得するごとにいっぱしの大人として世間に認められていくのだろう。

だが、おおかたのライセンスを取得する優秀な大人もいれば、僕と同じくいくつかの取得をスルーしたまま歳を重ねてしまった大人も少なからずいるのではないか。
自分の頭で考えたつもりの選択が、世間的にはただの「先送り」だったと後で気づく…というのは意外と人生のあるあるなのではないか?(と信じたい)

足りないライセンスに気づかずに、うっかり時を過ごしてきてしまったいびつな大人たちが励まし合っていく人間関係があってもいいじゃないか。
いっぱしの大人になる前に薄毛の進行が始まったノブヒコの日々を描きながら、僕はそんなことを考えるようになった。いまだに自動車免許はなく、薄毛の治療は考え中です。