「今は1年がんばれば、すぐに年俸1億円だからね」
中畑は獲得した権利について今、こんな総括をする。
「最低年俸保障については、球場に行くと若い連中からありがとうございますとよく言われたね。380万を800万円(当時)にしたからね」
年棒が800万円以下の選手でも一軍に出場登録されれば、出場するしないに関わらず、試合数ごとに日割りで加算することにした。これは采配を振るう監督にとっても好評だった。一方で実力の世界であり続けることは、競技力向上のためにもこだわった。
「二軍にいるのにあまりにも恵まれ過ぎているというのもプロとしておかしいでしょ。そこは何から何まで守ってあげるというのではなくて、一軍を目指すモチベーションも考えての最低保障だった」
悔恨もひとつある。それは年金制度の廃止だ。年金は選手が引退後、55歳から、年間120万円が支給されていたが、財源不足を理由に2011年に廃止された。
「自分が何をテーマに選手会をつくったかというと、年金制度の充実だったんだよ。引退後の生活不安を払拭させたかった。だから年金制度がなくされたことには、悔しさが残るね。あのまま残っていれば、厚生年金と終身年金で月12~13万円。それだけあれば何とか食っていけたからね」
それでも大きな成果を後世に残したことに変わりはない。一方、野球選手・中畑にとって残酷であったのは、この組合創設活動のタイミングが現役時代に最も脂の乗り切った時期にシンクロしてしまったことである。
「今、思うと、あのころの野球選手としての記憶がないんだよ。気持ちとしてはいい打撃成績を上げて交渉のテーブルに着きたかったんだけど、打率も落ちた。でも自分ひとりじゃなくて、12球団の選手の生活を背負っていたからね。十字架とはこういうものかと思いながら、それなりにかたちを残せてよかった。あの野球協約のままだったら、中堅の選手なんか、すぐに終わっていたよ。今は1年がんばれば、すぐに年俸1億円だからね」
プロ野球選手会労組結成に向けての事務方のパートナーとして尽力してくれた弁護士の紹介を依頼すると中畑は快諾してくれた。都労委への申請から、その後の交渉までタッグを組んだ法律家は何をどう思って戦略を組んだのか。
「弁護士さんの名前は長嶋(憲一)さんです。名前もいいでしょう」
絶好調男は豪快に笑った。
文/木村元彦