モグラにとっての限界状況
「ヤスパースはのう、死やの罪やの、どうにもならへん壁に出くわすことを、『限界状況に直面する』と表現したんや。そのときわしらの心は初めて、壁を越えた向こう側の、ごっつい存在を意識するようになるねん。それが、生きる、ゆうことの一つの意味やってヤスさんは言うねん。わしはその講義を聴いて、このちっこい目からウロコが落ちたような気分になった。すなわち、しょうもない生活も、ご先祖様から受け継いだトンネルの壁も、わしらモグラにとっての限界状況なんやろうと思うたわけや。それやったら、そこからやってくる苦痛は、えらい気づきをわしらに与えるためのお膳立てゆうことになるんちゃうか。わしは、そう思った」
おお!とユーさんはうなりました。自分が求めているものが近づいてきているような気がしたのです。
「そやからわしは、壁の向こうのごっつい存在に、気が遠くなるまで祈りを捧げたんや。生きとうことが楽しくなる喜びをくださいとな。その結果……」
「その結果?」
答えを早く聞きたくて、ユーさんは身を乗りだしました。
「状況はなにも変わらへんかった。土を掘るだけの生活も、わしの心も、まったく変わらへん。わしは気づいた。わしらは生活のなかで限界状況に直面しとったのではない。もともと、わしらそのものが限界状況の化身やったんや。それやったら、どんな哲学を持ちだしても救いようがあらへん」
ユーさんの口から、「え?」と息が漏れました。
「その代わり、わしはこれに出会った。酒や。酒さえ飲んどったら、気持ちが明るうなる。なに一つ解決せんでも、脳が夢を見るんやからな。いとも簡単に限界状況をぶち破ることができるわけや。つまり、壁の向こうのごっつい存在は、唯一の答えとして、酒を差しだしてくれたゆうわけや。さあ、飲め飲め飲め!酔って、すべてを越えんかい!」
ユーさんはドングリの盃を足下に置きました。「どうも」と短く礼を言い、関西モグラを刺激しないようにそっと後ずさりしました。トンネルのなかに、「飲め飲め飲め!」という掠れ声がこだまします。ユーさんはシャベルの手で耳をふさぎ、座りこんでしまいました。
結局、なにをどうしたところで、つまらない生活から抜けだすことはできないのだとわかってしまったからです。暗闇で土を掘り、ミミズを食べ続けるだけの一生なのです。