「朝から晩まで掘り続けな。そうしたら、悩みは消えるさ」
迷路をどう辿って巣に戻ったのか、ユーさんは覚えていません。「モグラとしての生」に、それくらい絶望してしまったのです。ふと我に返ったのは、「酒臭いよ、あんた」と奥さんに言われたときでした。
「私だって、飲みたいときはあるんだよ」
ユーさんは珍しく奥さんに口答えをしました。暗闇のなかでしたが、奥さんの表情が変わったのがユーさんにはわかりました。
「なんだって?」
「私だって、悩むことはあるんだよ。毎日土を掘るだけの生活だ。子どもたちが巣立ってからは、ここに帰ってきてもなんの喜びもない。酒くらい飲んだっていいじゃないか」
「バカ言ってるんじゃないよ!」
奥さんの声が鋼のように強ばりました。
「たらたら土掘りをして、ぼんやりした時間を作るから悩みってものがやってくるのさ。酒なんかでごまかしてないで、朝から晩まで掘り続けな。そうしたら、悩みは消えるさ」
なんという鬼嫁だろうと、ユーさんは息が詰まりそうでした。酔いも手伝ったのでしょう。ユーさんは仁王立ちになると、「おお、やってやるよ!掘り続けてやるよ!」と叫びました。巣の壁に突進し、猛然と掘り始めたのです。
ぶち切れる、とはこのことでした。やめさせようとする奥さんの声が聞こえたような気もしましたが、ユーさんはシャベルの手を爆発的に動かしました。巣の壁にはすぐに新しいトンネルができました。ユーさんはそのなかに入りこみ、腕よ壊れろとばかり掘り続けました。
もう、まっすぐに掘っているのか、曲がっているのか、どちらに向かっているのか、いっさいがわかりません。
ときおり現れるミミズに咬みつきながら、ユーさんは掘って掘って掘り続けました。すると、薄らいでいく意識のなかで、ユーさんはふと、なにかが見えたような気がしたのです。それは土から生まれ、土に戻っていく自分でした。今はただ、モグラという生き物として暗闇に出現していますが、本来はこの星の、土そのものだったのです。いえ、星そのものだったのです。
どれくらい掘り続けたのでしょう。気づいたとき、ユーさんはまた巣に戻っていました。酔って掘りだしたせいか、トンネルが曲がっていたのです。つまりユーさんは、巨大な円を描くトンネルを掘って帰還したのでした。
そのことを知っているのは、戻ってきたユーさんを喝采で迎えた奥さんと、壁の向こうの大いなる存在だけでした。
「ヘイ、ユー!でかいマルを描くなんてしゃれてるぜ!」
ユーさんは夢うつつのなかで、どこか遠くからの声を聞いたような気がしました。
文/ドリアン助川 写真/shutterstock
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