「朝から晩まで掘り続けな。そうしたら、悩みは消えるさ」

迷路をどう辿って巣に戻ったのか、ユーさんは覚えていません。「モグラとしての生」に、それくらい絶望してしまったのです。ふと我に返ったのは、「酒臭いよ、あんた」と奥さんに言われたときでした。

「私だって、飲みたいときはあるんだよ」

ユーさんは珍しく奥さんに口答えをしました。暗闇のなかでしたが、奥さんの表情が変わったのがユーさんにはわかりました。

「なんだって?」

「私だって、悩むことはあるんだよ。毎日土を掘るだけの生活だ。子どもたちが巣立ってからは、ここに帰ってきてもなんの喜びもない。酒くらい飲んだっていいじゃないか」

「バカ言ってるんじゃないよ!」

奥さんの声が鋼のように強ばりました。

「たらたら土掘りをして、ぼんやりした時間を作るから悩みってものがやってくるのさ。酒なんかでごまかしてないで、朝から晩まで掘り続けな。そうしたら、悩みは消えるさ」

もしも土を掘り続けることに疑問を持ったモグラがいたとしたら…ドリアン助川が描く「モグラの限界状況」_6
すべての画像を見る

なんという鬼嫁だろうと、ユーさんは息が詰まりそうでした。酔いも手伝ったのでしょう。ユーさんは仁王立ちになると、「おお、やってやるよ!掘り続けてやるよ!」と叫びました。巣の壁に突進し、猛然と掘り始めたのです。

ぶち切れる、とはこのことでした。やめさせようとする奥さんの声が聞こえたような気もしましたが、ユーさんはシャベルの手を爆発的に動かしました。巣の壁にはすぐに新しいトンネルができました。ユーさんはそのなかに入りこみ、腕よ壊れろとばかり掘り続けました。
もう、まっすぐに掘っているのか、曲がっているのか、どちらに向かっているのか、いっさいがわかりません。

ときおり現れるミミズに咬みつきながら、ユーさんは掘って掘って掘り続けました。すると、薄らいでいく意識のなかで、ユーさんはふと、なにかが見えたような気がしたのです。それは土から生まれ、土に戻っていく自分でした。今はただ、モグラという生き物として暗闇に出現していますが、本来はこの星の、土そのものだったのです。いえ、星そのものだったのです。

どれくらい掘り続けたのでしょう。気づいたとき、ユーさんはまた巣に戻っていました。酔って掘りだしたせいか、トンネルが曲がっていたのです。つまりユーさんは、巨大な円を描くトンネルを掘って帰還したのでした。

そのことを知っているのは、戻ってきたユーさんを喝采で迎えた奥さんと、壁の向こうの大いなる存在だけでした。

「ヘイ、ユー!でかいマルを描くなんてしゃれてるぜ!」

ユーさんは夢うつつのなかで、どこか遠くからの声を聞いたような気がしました。

文/ドリアン助川 写真/shutterstock

#1 バクのあそこは哺乳類一大きくて、アホウドリは生涯で60回子育てする!? ドリアン助川、構想50年の渾身作は、動物の叫びが心を揺さぶる21の物語

動物哲学物語 確かなリスの不確かさ
著者:ドリアン 助川
もしも土を掘り続けることに疑問を持ったモグラがいたとしたら…ドリアン助川が描く「モグラの限界状況」_7
2023年10月26日発売
2,000円(税込)
四六判/304ページ
ISBN:978-4-7976-7437-8
動物の生態に哲学のひとさじ。
映画化された世界的ベストセラー『あん』のドリアン助川、構想50年の渾身作!
動物の叫びが心を揺さぶり、涙が止まらない21の物語。
哲学の入門書よりやさしく、感動的なストーリー。
どんぐりの落下と発芽から「ここに在る」ことを問うリスの青年。衰弱した弟との「間柄」から、ニワトリを襲うキツネのお姉さん。洞窟から光の世界へ飛び出し、「存在の本質」を探すコウモリの男子。土を掘ってミミズを食べる毎日で、「限界状況」に陥ったモグラのおじさん。日本や南米の生き物が見た「世界」とは?
ベストセラー『あん』の作家が描いたのは、動物の生態に哲学のひとさじを加えた物語21篇。その中で動物のつぶやき、ため息、嘆き、叫びに出遭ったとき、私たち人間の心は揺れ動き、涙があふれ、明日を「生きる」意味や理由が見えてくる!
amazon 楽天ブックス honto セブンネット TSUTAYA 紀伊国屋書店 ヨドバシ・ドット・コム Honya Club HMV&BOOKS e-hon