関西モグラが口にした、ニンゲンの哲学者の名前
そのユーさんに声がかかったのは、迷路の分岐をいくつか過ぎたあとでした。だれかの巣のなかから、「しけた足取りしとんなあ。一杯、飲んでけや!」と呼び止められたのです。あたりには酒の匂いがぷんぷん漂っていました。
まっ暗ですから、相手の顔は見えません。でも、言葉遣いから、最近勢力を伸ばしてきたコウベモグラだということがわかりました。関西からやってきた彼にも、ユーさんの足音はよほど頼りなく、哀しげに聞こえたのでしょう。
「なにを悩んどうねん?」
酒の飲みすぎなのか、関西モグラはブルージーな掠れ声の持ち主でした。「さあ、飲んでや」と、彼はユーさんのシャベルの手にドングリの盃を持たせました。ユーさんはあとで奥さんに𠮟られるかもしれないと考え、すこし迷いましたが、なんだかもうどうでもいい気分になり、その盃に口をつけました。なにかの根っこを発酵させた酒なのでしょう。ピリッとくる味わいは、ニンゲンが飲む芋焼酎に似たものでした。
「落ちこんどうときは、飲むのが一番や」暗闇のなかで、関西モグラが酒を注いできます。酔いが回ってきたユーさんは、つい愚痴り酒になってしまいました。
「飲まないとやってられないですよね。トンネルのなかで土を掘って、ミミズを食べるだけの毎日です。そうやって一生が過ぎていく。我々モグラは、なんでこんなにつまらない生活をしなければいけないのですか?」
「わあ、なんや、あんた。ちょっとした精神的危機ゆうやつやな。はい、まあ、飲みーな」
関西モグラは自分でもごくりと咽を鳴らし、酒を呷りました。掠れ声が大きくなります。
「わしかて、悩んだことがあるねん。わしらは、生涯暗闇のなかや。しかも代わり映えせえへん生活が永々と続く。それを考えると、どうにもしんどかった」
「本当ですよ。この命になんの意味があるんだろうって考えちゃう」
ユーさんはもう涙目です。うんうん、と関西モグラがうなずきました。
「わしなあ、ごっつい悩んどった頃、大学の教室の地下にねぐらを構えとったんや。ただ寝とうだけで、講義の声が聞こえてくるねん。ほんで、いろいろと勉強した。苦悩に立ち向かうには、哲学しかないと思ったこともあるで。そやけど、ニンゲンやって、考えることの試行錯誤を繰り返しとうだけやとわかった。万能の答えゆうもんはあらへんねん。たとえば、ドイツのヤスパースや」
関西モグラがニンゲンの哲学者の名を口にしました。ユーさんは思わぬ展開に驚き、ドングリの盃を胸に抱きました。