戦績では負け越したが勝ち取った金星

一彦さんは「会長にワシは潰されたんよ」と振り返る。かなり辛辣な言い方に聞こえるが、ふたりの間には36年以上の関係があり、第三者である筆者が言葉通りに真情を受け取っていいものか戸惑わされる。別のあるジムOBは、「ジム創設時からいる大先輩の一彦さんと守安会長の関係は、立ち入ることができない親子のような雰囲気があった」とも話していた。

守安ジム主催、第1回目の「桃太郎ファイト」興行ポスター。メインイベントとして、一彦さんの写真が大きく掲載されている
守安ジム主催、第1回目の「桃太郎ファイト」興行ポスター。メインイベントとして、一彦さんの写真が大きく掲載されている

1992年、守安会長は先述の通り自主興行「桃太郎ファイト」を起ち上げる。1回目の興行でメインイベントに出場させたのは、一彦さんだった。しかし東京から呼んだ日本ランカー相手のこの試合で、一彦さんは7R TKO負けを喫する。以降、一彦さんは勝ったり負けたりを繰り返している間に、有望な後輩たちに追い越されていく。

1990年代後半、守安ジムに所属するプロは最盛期で30名を超えた。日本ランキングに入る選手がぽつぽつと表れ、1998年にウルフ時光、2000年には藤田和典が東洋太平洋王者となった。「桃太郎ファイト」のメインはもはや一彦さんではなく、後輩たちが出場するようになっていた。

2001年、一彦さんは通算30戦13勝(3KO)15敗2分という生涯成績を残して引退する。一度も日本ランキングに入ることはなかった。

ただ、戦績では負け越したものの、面倒見がよく、ジムの後輩たちからは慕われていた。ある日、ジムの後輩が一彦さんに神妙な面持ちで、「お姉ちゃんを紹介したい」と相談を持ちかけたことがある。

そのとき紹介された女性が、のちに妻となる純子さんだった。1993年に結婚、1995年にユーリ阿久井政悟が生まれた。

ユーリ阿久井、3歳のとき
ユーリ阿久井、3歳のとき
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今回のインタビューを終えると、一彦さんは「岡山駅まで送りますよ」と、筆者を車の助手席に乗せてくれた。車内で、引退してから8年後の2009年、中学2年になった息子の政悟を連れて守安ジムに顔を出したときの話をしてくれた。

守安会長は政悟を見るなり、笑顔で迎えたという。

「せやけど実のところワシの頭には、守安ジムの後輩が開設した県内の2つのジムも候補にあってね。おっつぁんにはもちろん言ってないけど、当初、坊主(政悟)をどこのジムに連れて行くか少し迷ったんよ」

本当にこの子を守安会長のそばに置いて、いいのだろうか。
厳しい練習でオーバーワークになり、ボクシングを嫌いになってしまわないだろうか。

「でも、いろいろ考えたけどやっぱりねえ。ワシはおっつぁんに恩義があるから……」

一彦さんはぽつりと言った。

#2へつづく

#2 岡山・倉敷の極小ジムから世界戦を手にしたユーリ阿久井。資金不足も地方ハンデも乗り越えてボクシングを続ける阿久井とジムの原動力とは

取材・撮影・文/田中雅大