地方ジムのかませ犬から「岡山の星」に
「今ではそんなことはないですが、当時は判定の贔屓がひどくて、名古屋や九州行ったら勝てんかったですよ」
1974年プロデビューの守安会長は、農協職員との兼業ボクサーで日本王者になった経歴を持つ。「岡山の星」として地元のヒーローとなったが、当時所属したジムは小さく、自主興行もなかった。現役時代の試合の大半は、アウェイのリングで不可解な判定で敗れることが多い“かませ犬”だったという。
「世界ランキング3位にまでなりましたが、当時の世界王者はアーロン・プライヤーという有名なチャンピオン。(国内でタイトル戦をするために)呼ぶには億単位のお金がかかったでしょう。地方ジムがそんな選手を呼ぶのは大変なことです。結局実現せず、4度目の防衛戦で負けて、それから1年後の1984年に引退しました」
その後、1987年5月、守安会長は倉敷市内に300万円をかけてジムをオープン。このジム開きの数日前に見学に来た、体格のいい青年がジムの歴史を変えることとなる。
「会うなり、おっつぁん(守安会長)に、『おう、おめえプロになれ』て言われて。無茶言いよるなて」
その青年、阿久井一彦さんが振り返る。3年後の1990年、会長の言うとおり守安ジム所属のプロボクサー第1号となったこの一彦さんこそが、ユーリ阿久井政悟の父である。
23歳で守安ジムに入会した一彦さんは、柔道で鍛え上げた体力を武器に全日本選手権出場などアマチュアで輝かしい実績を残し、プロデビューする。
「じゃけど、ワシとしてはねえ、プロデビュー前のオーバーワークで調子崩されたと思うとるんよ」
一彦さんはプロデビュー後の自身のキャリアに、納得がいかないところがありそうだ。
「プロデビューの試合の1週間前にねえ、おっつぁん(会長)に『おえ、マスボクシングやるぞ』って言われて、思い切り首の後ろを殴られて、それで調子狂うたんよ。結局、試合は引き分けで試合後にオーバーワークが原因じゃなと思っておったら、そばでおっつぁんが『うーんやっぱり練習が足らんな』というて。それでワシはこりゃダメじゃと思うて、デビュー後は途中からおっつぁんの言うこと聞かんようになって…」