集合体の暴力性
集合体を目にしたとき、不快感とともに感じるのは「爪を立てて掻きむしりたい!」という衝動である。そんなことをしたら、爪のあいだに粒々や鱗片みたいなものが詰まってしまったり、潰れて溢れ出した粘液状のもので指が汚れたりしそうで嫌なのだけれど、それでもなお、がりがりと掻きむしりたい。そのことで自分が感染したり寄生虫に潜り込まれたりしかねないのに、それでもなお掻きむしりたい。
小さな穴が、たこ焼き器の凹みさながらにびっしりと並んでいたら、その穴の1つ1つに鉛筆の尖端を突き刺して掻き回したい。そうしなければ、もどかしさで頭が破裂しそうだ。
そしてそんなことを思っているわたしの頭の中にはミクロなパニックが生じている。高橋たか子の小説で、「それまで隠されていたものがそこに過剰にあらわれ出て、(中略)理由もなく、いわば暴力的に湧いている」と書かれている箇所は重要である。
集合体は、一定数以上が寄り集まると、算術級数的であることをやめて幾何級数的な存在感をもたらす。それはまさに恐慌を起こさせるに十分な刺激であり、不条理感を伴う「圧倒的な存在の手応え」となって暴力的に迫ってくる。
しかも「1匹1匹というより、全部が連続してひとつながりになっているようでもある」、つまり1匹や1個の集合はやがて個々の意味を凌駕して、全体として何らかの意味を持っているかのように見えてくる。しかもその意味とは、わたしたちをもその集合へと取り込んで不快な存在感の誇示へ加担させようという意志ではないのか。
菊池新『なぜ皮膚はかゆくなるのか』(PHP新書)には、「2013年になって「かゆみを想像しただけでかゆくなる」ことの、脳内メカニズムが解明された。被験者にじんましんが出ている皮膚の写真を見せたときの脳の活動を、fMRIを使って調べたのだ。
結果、写真を見たときに、情動をつかさどる島皮質と、運動の制御や欲求をつかさどる大脳基底核という部位の活動が高まっていることがわかった。つまり「かゆみを想起させる写真を見ただけで、脳の掻きたいという欲求を刺激する部分が反応した」というのだ」と述べてあった。
なるほど、ブツブツを見ただけで、我々の皮膚にはそれに似た想像上のブツブツが生じるというわけだ。それはすなわち我々がブツブツにたじろがされると同時に、他者へ掻痒感やぞっとする感覚を与えかねない「加害者」へと暴力的に変身させられるということである。一人二役で被害者と加害者とを同時に演じさせられる。そうした暴力性(そして屈折に屈折を重ねた誘惑や依存性)に恐怖を覚えても無理はあるまい。
集合体恐怖は、痒みを中心とした皮膚感覚を通してわたしたちの心へ侵入し脅かす。自分も集合体の一部に変身してしまうといったおぞましさを惹起する。その事実を反対側から述べている文章を参考までにここへ引用してみよう。
ドイツの神学者オットー・ベッツ(1917~2005)の『象徴としての身体』(西村正身訳、青土社)で、皮膚に関して語られている一節である。
〈私たちは愛する人に皮膚を優しく愛撫されるときに、いちばん気持ち良く感じる。そのとき初めて私たちは、皮膚が肉体の他の部分と並ぶ単なる部分なのではなく、身体のすべての部分と結びついているのだということに、本当に気づくのである。
従って皮膚ではなく、その人の全てが愛撫されるのであり、皮膚は優しい愛撫の入口であって、あらゆるニュアンスを受け入れ、それをさらに伝えることができるのである。〉
オットー・ベッツによるこの記述の悪夢バージョンが、すなわち集合体恐怖という次第である。
いざいざ ぞわぞわ 甲殻類恐怖症
粘り気のある時間 ゴキブリの件
文/春日武彦
写真/©shutterstock