私はいちごが食べられない

柴田よしきのホラー短篇「つぶつぶ」(井上雅彦監修『異形コレクション恐怖症』所収、光文社文庫)ではどうだろう。


〈そう、たとえば私はいちごが食べられない。

いちごを平気で食べる大部分の人間は、いちごの赤い果肉の表面に、茶色の小さなつぶつぶが無数についていることに気づいていないか、気づいていても気にしない。しかしあれをよくよく目の前に近づけてみれば、それがどれほど気味の悪いものであるか知って愕然となるに違いない。茶色くかたいつぶつぶが、赤く柔らかな果肉に食い込むようにしてへばりついているのだ。何粒も何粒も何粒も何粒も何粒も……

私はいちごを目にすると、あのかたいつぶつぶをひとつずつ、爪楊枝の先でほじり出して赤い果肉をすっきりさせてやりたい衝動を抑えるのに苦労する。

いちごだけではない。少し神経を尖らせて観察すれば、この世の中は、つぶつぶ、で溢れていることに気がつくはずだ。〉

「爪を立てて掻きむしりたい!」という衝動…びっしりいっぱいの蛙や蛾の卵、アトピー性の皮膚…集合体恐怖症の正体とは_3

まさにその通り。迂闊にも見過ごしているだけで、おぞましい集合体はこの世の中にいくらでもあり、わたしたちがうっかり「気づいてしまう」のをじっと待っている。

集合体恐怖の理由の説明として、寄生虫や皮膚病、伝染病などに皮膚が冒された状態を連想させてその危機感や不快感が恐怖につながる、といった話が比較的流布しているようである。それはそれでその通りとは思う。

わたしはかつて小児喘息とアトピーに悩まされていたが、アトピーでは肌にみっしりとブツブツが生じ、それを目にするとますます痒みが激しくなる。いくら掻いても痒みは治まらず、自分の皮膚はいよいよ異様な状態に変化していく。

透明な汁がじくじくと滲出し、落屑が雲母のようだ。おぞましいものに変身していくかのような気味の悪さをひしひしと自分自身に感じたものであった。そのせいか、集合体恐怖的な傾向が強く、それどころか自虐的な遊びに耽っていた時期さえある。

その遊びとは、画用紙の裏から鉛筆の尖端で紙を突き刺すのである。ただし貫通はさせない。すると表面には尖った「ささくれ」が生じる。ほぼ1センチメートル間隔で紙の裏全体をまんべんなく鉛筆で突く。

そうなると画用紙の表面は大根おろしの「おろし金」さながら「ささくれ」でみっしり覆い尽くされる。それは目にしただけで十分にぞわぞわと皮膚感覚を刺激する。しかもその表面を指先でそっと撫でたり、頬に擦りつけたりして突起の密集がもたらす不快感を堪能するのである。ああ、気味が悪い、病んだ皮膚そのものじゃないか、おぞましくて耐え難いなあ、と。

そして最後には画用紙を無茶苦茶に破り捨てるのであるが、切手の目打ちみたいに突起が互いにつながるようにして破れていき、そのつながっている感触がなぜかわたしをぎょっとさせる。妙に生々しく生き物めいた手応えを指先に伝えてくるのだった。