「1980年代を思い出したよ。ソ連と同じ空気だった。自由が消えたんだ」
ロシア軍による占領当初、ヘルソンの市民はウクライナ国旗を手に毎日、デモを行い、抵抗の意思を露わにした。
22年3月から4月にかけて、銃を構えるロシア兵や戦車に素手で向きあうデモ隊の投稿映像を私もソーシャルメディアなどで見ていた。それでも、やはり後からでも実際に現場で人々の思いに触れると響き方が違う。
当初は友好的な態度で臨んだ占領軍は、ロシアを受け入れようとしない市民にいら立ち、4月半ばから弾圧を強めていったそうだ。
監禁された男性によると、ロシア軍に協力する住民がおり、自分のことを密告したのが誰か見当がついていると語った。その人物はロシア軍の撤退と同時にロシア軍の占領地域に逃げたという。オルハも誰かに密告されたのだと話していた。
私が出会った市民の多くは占領下の生活をソ連時代と重ねた。20代のカフェのウェートレスは当時をこう振り返った。
「占領当初は数週間で解放されると思っていたから、日増しに絶望感が強まっていった。カフェは営業を続けていて、客にはロシア兵もいたわ……私はソ連を知らないけれど、みなソ連時代と同じだと話していた。どこに『協力者』がいて、密告されるか分からないから、うかつに話ができない。きっとスターリン時代の恐怖政治と同じよ……特に男性はいつでも捕まる恐れがあって危険だった。私の知り合いの男性も何人か監禁されて拷問を受けた。だから、町が解放されるまでの8か月間、私の夫は6日しか外に出なかった」
60代の男性もこう語る。
「1980年代を思い出したよ。ソ連と同じ空気だった。自由が消えたんだ」
それでも市民は抵抗を止めなかった。夜間のうちに、抵抗を示す黄色いリボンやウクライナの国旗を街頭の壁にペインティングした。
ロシア軍はそれを塗りつぶして回るが、また新たなところに、黄色いリボンが現れた。私が訪れた時も、街頭に当時のペインティングがいくつも残っていた。
22年8月ごろからウクライナ軍が反転攻勢に乗り出し、ヘルソンでも砲撃音が聞かれるようになると、恐怖ではなく、喜びを感じたと、市民はいう。
「仕事の後、カフェの仲間たちと歓声を上げたわ。もっと撃て、もっと撃て、ってね」
文/古川英治 写真/shutterstock
#1『「記者じゃない、当事者だ」ウクライナ侵攻開始直後、「あなたは何もしていない。記者でしょう? 書いたらどうなの」とウクライナ人妻から言われた日本人記者のホンネと葛藤』はこちらから
#3『侵略者に利するゼレンスキー政権批判をためらった記者のジレンマ。ウクライナ在住の日本人記者も「いいロシア兵もいた」という記事は書けなかった。反汚職で新たな展開も』はこちらから