「『お父さん、私の絵を描いて』と夢の中で懇願されました」
公判は2度目の精神鑑定のため中断されたが、1995年2月2日、1年11か月ぶりに再開された。
その頃、被害女児Aちゃんの父親が心中をわたしに語ってくれた。
父親は若い頃は銀座で油絵の個展を開くほどの才能の持ち主だったが、プロにはならずに設計士の道を歩んだ。その彼を十数年ぶりにキャンバスへと向かわせたのは、夢の中のAちゃんだった。
「平成元年1989年の暮れ、Aの誕生日前後に『お父さん、私の絵を描いて』と夢の中で懇願されました。初めは4歳当時の肖像でしたが、その後、絵を描くたびに娘はどんどん成長していくのです。叶うなら、亡くなった4人の子供たちの写真を借りて、『四姉妹』というタイトルで大きなキャンバスに絵を描いてみたい」
それまで淡々と心情を吐露していた父親は、荒ぶる心を抑えきれなくなったのか、語気を強めた。
「宮崎は逃げていると思う。あれだけの文章が書けるんですよ、1から10まで狂っているということはない。原因はやはり家庭なのです。当時は死刑を願っていたが、今はなんとも言えない。もちろん宮崎を許すわけではないし、対面したら私はどうなるかわかりません。しかし、私も歳をとって白髪頭になってしまいました」
1997年4月14日、東京地裁は第一審で死刑判決を言い渡した。勤は月刊誌に心情を綴った手紙を送った。
「(死刑は)何かの間違い。(4人の幼女は)今でも夢に出てきて『ありがとう』と言って喜んでいる」
死刑判決が出た後、わたしは事件関係者を訪ね、彼らの“その後”を取材した。被害女児Bちゃんの父親が心境を語ってくれた。
「死刑の判決は出たが、まだ調べることがあると聞いていたので、長くなるのは覚悟している。世間は事件を忘れているかもしれないが、当事者にとっては(宮崎勤が)死ぬまで終わらないのです。来年は娘の十三回忌。生きていれば成人式を迎える歳になるのです。
あの事件以来、家族関係がゴタゴタして3年前から女房とは別居しています。こうなったのは誰のせいですか。家庭が壊れても誰も補償してくれないでしょう。あれ以来、新聞(購読)もやめて事件を忘れようとしているのです」
もうそっとしておいてほしい――。父親の心の叫びだった。