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「息子はあんな事件を起こすような男ではない」

「八王子市内でわいせつ事件を起こした五日市町の男が、Dちゃん殺害を自供」

平成元年、1989年8月10日。この日から所属していた編集部の夏休みが始まり、わたしは家族を車に乗せて奥多摩湖に向かっていた。

奇妙な縁だが、4人目の被害者Dちゃんの頭部が発見された杉林脇の吉野街道を走行していたときに、カーラジオから臨時ニュースが流れた。心臓がばくついた。わたしは車を急転回させて、西多摩郡五日市町(現・あきる野市)へ急いだ。

自供した男の名前も住所もわからない。とりあえず五日市警察署へ向かうと、署員全員がテレビの画面を見つめていた。名刺を出すと、「うちの署は事件とは関係がないので何もわからないが、自宅はあそこだよ」と清流・秋川の対岸を指した。

Dちゃん殺害を自供した宮崎勤の実家は週刊「秋川新聞」を発行している印刷会社だった。 炎天下の昼すぎ、すでに数人の報道陣が勤の両親を囲んでいた。

家族旅行中だったわたしはランニングに短パン、サンダル姿だった。裏口から入ると、「こいつは誰だ」という視線が一斉に飛んできた。旧知の新聞記者が手招きしてくれたお陰で、なんとかマスコミと認知された。

宮崎勤・元死刑囚の自宅
宮崎勤・元死刑囚の自宅

印刷機が並ぶ工場奥の居間で、頭髪をポマードで固めた艶っぽい父親(当時59歳)と小柄な老婦人がちょこんと座って、記者からの質問に答えていた。わたしが勤のおばあさんだと思ったその女性は、母親(当時55歳)だった。それほど夫妻の見た目には差があった。

「子供のころはコツコツやるタイプで努力家だった。他人との付き合いに欠けていたので町の消防団を勧めたのだが……。息子は物静かで大人しい性格。あんな事件を起こすような男ではない。夜、出歩くこともないし外泊もない」

父親は勤の人柄を語った。記者たちは“今田勇子”が被害者宅に送ったメモについて質問した。

「私のワープロ、コンピューターに勤は手をつけていない。インスタントカメラやビデオカメラもない」

わたしは「家族で幼女殺害事件が話題にならなかったのか」と聞いた。

「一切ない」

苛立った表情の父親は、きっぱり答えた。

「趣味はアニメのビデオ収集。勤の部屋を見てくれればわかる」