誰も明菜を支配することはできない

日差しの強い、暑い日だった。山本は焦(じ)れるマスコミに対して、昼食後に取材の時間を設けることを約束し、200メートル以上離れた場所で待機するよう指示を出した。

約束の時間ちょうどに、マッチはバスを降り、姿を見せた。しかし、明菜は現れない。
マネージャーが明菜の乗るバスに駆け寄って行き、ドアを叩くが、返事がない。もう一人のマネージャーも駆け付けたが、それでも反応はなく、5分が過ぎ、やがて10分を超えた。噴き出す汗とスタッフ間に飛び交う怒号。時間は刻々と過ぎていく。

もはや限界だった。山本が意を決し、深呼吸してから扉を叩いた。「明菜」と名前を呼んでも反応はなく、一拍置いてから、再び声を掛けた。

「明菜始まるよ、行こうか」

するとバスの中から女性マネージャーの「すいません、何か」という声がして扉が動いた。その瞬間、山本が扉に手をかけ、一気に開けると、そこには明菜が立っていた。
「どうですか?山本さん、似合います?」

彼女はそう言って映画で使う衣装を誇示するようにポーズをとった後、バスから走り出て来た。

「週刊明星」1984年12月6日号表紙
「週刊明星」1984年12月6日号表紙
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取材を放棄していれば、現場は混乱を極めたはずだった。彼女は仮にも先輩であるトップスターのマッチを待たせたうえで、そのピンチを自らの見せ場に変えた。そして胸のすくような結末で周りの気持ちを一気に掴んだ。誰も明菜を支配することはできない。そんな強さが当時の彼女を形作っていた。

“あの夜”から始まった近藤との秘めた恋は、彼女にとって唯一の“聖域”だった。
2人の仲はその後もマスコミの恰好の餌食となったが、彼女は近しい人たちの前ではその一途な思いを隠そうともしなかった。時には、近藤のレコーディング現場に手作りの弁当を届け、近藤の帰りを彼のマンションでひたすら待つ。互いの事務所も半ば公認で、誰も咎めることはなかった。

献身的に尽くした20代の恋は、やがて悲劇的な結末へと向かうことになるが、当時の明菜にとってはこの時代が、公私ともに充実し、将来の幸福の形を思い描くことができた絶頂期だったのかもしれない。


文/西﨑伸彦
写真/週刊明星1984年12月6日号 
撮影/篠原伸佳

『中森明菜 消えた歌姫』
西﨑 伸彦
何故プラスチックゴミが海に流失するのか。では埋めればいいのか?焼却すればいいのか? 廃プラスチックのもっとも「サステナブル」な処分方法とは_5
2023年4月11日発売
1,760円(税込)
224ページ
ISBN:978-4163916842
「何がみんなにとっての正義なんだろう?」
2022年12月、中森明菜は公式HPでファンに問いかけた。

そして、こう続けた。

「自分で答えを出すことに覚悟が必要でしたが、私はこの道を選びました」

表舞台から姿を消して5年あまり。彼女の歌手人生は、デビューした1980年代を第1幕とすれば、混迷の第2幕を経て、これから第3幕を迎えようとしている。

「お金をね、持っていかれるのはいいんです。でも一緒に心を持っていかれるのが耐えられないの」
1990年代に入り新事務所を立ち上げてレーベルも移籍した頃、雑誌のインタビューで打ち明けていた。
孤高にして寂しい――。

不朽の名曲「難破船」を提供した加藤登紀子は、明菜をそう表現した。
自らの道を進もうとするほどに孤独になっていく「歌姫」の肖像。
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