内閣人事局は過去何十年と積み上げられてきた評価を
知らぬままに人事権を行使
内閣人事局に内在する危険性を、発足前から指摘していた財務省の次官経験者がいた。その中核に位置するのが「人事評価」であり、この扱いが人事にどう反映されるかがポイントになるとして、こう語った。
「その人物を、誰が評価するのかという問題がある。各府省は20年、30年と一緒にやってきた上司がいて―もちろんそれでも人物評価にはバイアスはかかるが―すべてを知った上で人事評価する。それに対して、内閣人事局は過去何十年と積み上げられてきた評価を知らぬままに人事権を行使する。まして、最後の与奪の権を握るのが政治家となれば、評価の対象が「あいつは愛奴じゃ」といった極めて表面的な好き嫌いの感情が判断材料になるのは人の世の常だろう」
そういう構図が予想されるのであれば、当然、官僚は忖度に走る。これもまた必然の道理であると、次官経験者は続けた。
「たまたまある事案を担当し、官邸にしばしば通って人事権者の覚えがめでたくなる。その結果として、府省内のコンセンサスとは違った抜擢人事が行われると、自分もしばしば通ってゴマを擂すったほうが得、盾突いたら損と自己規制を始める。あまり好きな言葉ではないが、猟官運動に走る輩やからが出てくるのは不思議ではないし、官僚とて人間集団だからいろいろな人がいて、ぎらついた思惑で動くのは避けられない」
「抜擢」か「左遷」か…当然、官僚は忖度に走る
内閣人事局創設の前後から霞が関で交わされ始めた微妙なささやきの声は、いざ制度がスタートするにつれ具体的な輪郭を伴って現実化していった。事務次官、あるいはそれを目前にした局長人事で、「抜擢か」「左遷か」―それらをあえて一言で片づければ恣意的人事と言えるのかもしれないが―判断を迷わせる異例な人事が目につくようになった。
ここに取り上げる事例は、霞が関で話題を集めただけではなく、マスコミなどに取り上げられたケースであり、概して「過去の慣例を破った」人事の数々である。今更筆者がしたり顔で解説するまでもなく、人事は「ひとごと」とも読めるように、人が人を評価して任免を決める行為だけに、決定までには好き嫌いを含めたさまざまな感情が入り交じりながら一つの結論に収斂していく。
内閣人事局の中でどのような会話が交わされたのか、中でも首相、官房長官、各府省大臣による三者協議で、最後の決定打となるどんなやり取りが交わされたのか。そのすべてとは言わないまでも、人事を決定づける三者の片言隻句でも耳にしない限り、公表された人事をあれこれ詮索するのは、本来、的外れの批判を免れないかもしれない。