昨年、沖縄は日本復帰50年の節目を迎えた。
NHKでは、「山原(やんばる)」と呼ばれる本島北部の家族の、1972年5月15日の日本復帰から現在までの足跡を描いたドラマ『ちむどんどん』が放送されるなど、沖縄の半世紀の歩みに注目が集まった。
第二次世界大戦において、日本で唯一の地上戦という悲劇に見舞われ、長い米軍統治の「アメリカ世」を経てもなお、過重な基地負担を負わされる苦難の戦後史を刻んだ沖縄。
しかし、沖縄についてこれまで語られてきたどの「正史」にも、売春街に生きた女たちの人生が登場したことはない。
本記事では、「売春街」に生きた5人の女たちを取り上げた電子書籍『パラダイス』(大洋図書)から、沖縄の売春街の成り立ちを一部抜粋して紹介する。歴史の裏側に秘められた、もうひとつの「真実」がここにある。
「売春防止法もあしたから発令だな」
1972年5月14日。米軍統治下の「アメリカ世」から日本に復帰を果たす前日、雨が降る「コザ」の街では、男たちがそんな会話を交わしていた。
「コザ」は、かつて沖縄県中部にあった街だ。「コザ市」から「沖縄市」へと街の名前が変わっても、地元の人間の多くがその通り名を口にする。
極東最大の米軍基地「嘉手納基地」を抱え、現在も市域面積の34,5%(2016年のデータ、沖縄市調べ)を米軍基地が占める「基地の街」。復帰前にあった猥雑な活気はもはや失われているが、日本復帰前、かつてのこの街の賑わいを支えたのが、「戦争」と「女」だった。
朝鮮戦争とベトナム戦争の特需だった
1950年代の朝鮮戦争、60年代から72年の復帰後も続いたベトナム戦争。戦争特需に沸き立つ街に、ドルを求めて「モトシンカカランヌー」、沖縄の方言で「元手がかからない」生業で暮らしを紡ぐ人々が集まったのだ。
米軍統治下の沖縄には、基地が所在する街の至るところに、こうした「特飲街(特殊飲食店街)」が存在し、そこで暮らす女たちがいた。
当時を知る人々は取材にこう答えている。
「当時、 嘉手納基地の第一ゲート近くにあった八重島にできたのが、『ニューコザ』 と呼ばれた特飲街さ。戦場に行く米兵を目当てに商売しようっちゅう連中が集まった」
新しい土地で商売を興す者、「アシバー」と呼ばれる寄る辺ない者も集まったが、 街の経済 を回したのは女たちだった。
「離島とか『大島』あたりから朝鮮戦争景気で女売りがきた。 娘なんかよ、パンパンさせていたよ」
国民の多くが窮乏した戦後。資源に乏しい宮古や八重山といった離島の貧困は、沖縄戦で焦土と化した沖縄本島よりもさらにひどいものだったのだ。